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まー、現実的に言えば、長篠の戦いで勝利するまでの信長は、家康にこんなに高圧的に接することのできる立場ではないですねw #どうする家康
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強右衛門さん( ;∀;) なお、彼の息子が関ヶ原合戦の後、逃亡していた安国寺恵瓊を捕らえるという勲功を立てたとされます #どうする家康
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ドイツのワイマール共和国期初期の「選挙」の勝ち負けなるものが概ね、各政党の私兵団がその選挙区を暴力によって占拠できたかどうかで決まる、という強烈な陣取りゲームの世界だったらしい、という話に複雑な感慨を抱く
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初期ナチスが弱小政党だったというのは、つまりこの私兵団が弱小だった為であり、事実ナチ党の私兵団であった突撃隊の拡充とともにナチス党勢も拡大しており、「民主主義」って制度だけではどうにもならないものだなあとも。
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なお長篠の戦いは、基本的には勝頼vs家康の合戦であり、信長勢はあくまで「援軍」という形でした。よって戦場で武田と主に戦ったのも当然ながら徳川軍でした。 #どうする家康
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まあ正直、令和の時代になってこんな古典的な長篠合戦三段撃ちを見るとは、という気持ちにはなっている #どうする家康
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織田信長が事実上の「天下人」となり得たのは、この長篠の戦いでの勝利によるとされ、これについては信長研究において、諸説ほぼ一致しているかと #どうする家康
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「織田様の手先になってから戦戦戦…」
実際、織田信長に従った大名国衆で謀反するものが多かったのは、前線地域での過剰な軍役の負担に領民が耐えられなくなり、その地域の領主が領民を繋ぎ止めるために信長から離脱、というパターンが多かったとも言われます #どうする家康
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水野さん最後まで口は悪いけど家康に親切だな #どうする家康
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少なくとも晩年を見る限り家康公、「女を見る目」というのも相当有った模様 #どうする家康
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ここを見る限りこの大河の家康公、信康にものすごく真っ当な側役付けてはいますね #どうする家康
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まあでもこの大河の家康公、関ヶ原の時に「息子(信康)が生きていれば…」は言いそうw #どうする家康
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今度のロシアのクーデターが結果としてどうなるかは別として、「負け戦ってこういうものかー」という感慨が深い
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今回のロシアのクーデター、歴史上の類似例についても色々な意見があると思いますが、個人的には現状、唐の「安史の乱」かなあ、などとも感じております
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まあ現実的には、徳川軍の中には織田の援軍も織田に属する国衆も入っているのだから。こんな八百長してたらすぐ発覚しますね #どうする家康
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フェルシーちゃん「兄弟喧嘩で死ぬなんて馬鹿みたいじゃないですか!!!」
源頼朝・義経「おっそうだな」
足利尊氏・直義「いかにもいかにも」
織田信長・信勝「激しく同意」
徳川家光・忠長「兄弟で命のやり取りとか引くわー」
#水星の魔女
こうか
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「どうする家康」の信康事件、あの事件を「関係者が誰ひとり傷つかない内容」にしたのは確かに凄い作劇テクニックでは有ると思うのですが、どこかもんにゃりするのは、あの作劇で「守っている」のは、歴史上の人物ではなく出演している俳優さんたちのイメージなんだろうな、との気持ちの為か
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前作で、権力や体制を守るために文字通り修羅にも悪鬼にもなった主人公を見ていただけに
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それはそうとして、今回の大河、徳川家は信長に散々世話になっているのにむやみやたらに「信長は嫌だ嫌だ!!」って言うのちょっと酷いなあともw 実際の徳川家中の信長の評価はどうだったかというと、例えば後世の軍記ではありますが「三河物語」では信長について殆ど批判は見られないわけでして
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史実的に言えば武田との戦いは別に信長が家康に強制したわけではなく、むしろ家康の側が信玄へ挑発に挑発を重ねた挙げ句に信玄がガチ切れした結果であり、はっきり言えば「家康のせい」以外の何物でもなく、勝頼としても家康の首を取らねば信玄に申し訳が立たないわけでして何で信長のせいにしてるねん
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大久保忠教は「三河物語」の中で織田信長を、少なくとも対徳川家に関しては、ほぼ終始一貫して徳川家に対しての理解者であり、徳川家中の者達に非常に甘い、と描写しています。無論これもある種の「徳川史観」ではありますが、少なくとも徳川家中に、信長への一定の好印象があったと見ていいのではと
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ちなみに「徳川家康は織田信長に従属した存在であり家康が武田に喧嘩売ってきてるのは信長が背後で操っているんだよ!!!」というのは甲陽軍鑑などに見られ、つまり「武田史観」なのだと考えられます
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「日本の武士は盾を使わなかった」みたいな言説が昨今妙に広まってる気がする。武士はその出現から盾は普通に使ってますからね。ただしそれは両手持ちで、所謂西洋騎士のような片手持ちの盾を使わなかっただけ。反抗を表す「楯突く」という言葉は文字通り、盾を地面に突き立てる行為を指しているわけで
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リアルに考えると、主の身代わりになるような娘なら、あんなオドオドしてる子ではなく、相当の身分有る譜代の子女の内から選び、主に変わって嬉々として死に赴くような娘であるべきでしょうね #どうする家康
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本能寺の変の報を受けての、柴田勝家の越中からの反転速度は実は秀吉の「中国大返し」よりも早かった、と言う事らしいのですが、だとすると益々秀吉の「中国大返し」は、かなり常識的な反転速度だったという事ではなかろうか。良く言われる「信長のための道路整備や物資集積」もあまり関係なかったかも