まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(古い順)

601
秀吉末期の徳川家というのは、当主である家康本人が「羽柴一門」筆頭であっただけでなく、嫡男の秀忠も秀吉から完全に特別扱いされており、個人ではなく「徳川家」そのものが羽柴(豊臣)政権の柱石として秀吉から待遇されていたらしい、というのが昨今のこの時期の研究認識
602
なので慶長五年の「関ヶ原」において、豊臣奉行衆が「反家康」で蜂起したというのは、(そこまでの経緯や内部的事情はともかく)表面的には秀吉晩年の意図に反した行動であったといえます。
603
徳川は結果として旧主であった羽柴宗家(豊臣家)を滅ぼしたために、後世において秀吉期の徳川家に対する非常に高い待遇と期待をあえて「過小評価」した面があります。で、「石田三成」が秀吉の威を借りて徳川を滅ぼそうと嫌がらせをし続けた、みたいな話に。
604
戦国三傑についてドラマなどでは面白くするために色々脚色されますが、史料などを素直に読むと、信長も秀吉も家康という人物を非常に高く評価し信用しているんですね。その信頼感についての歴史の結果からの採点は別として、家康という人は多くの人にそう言った印象を持たせる人格の持ち主だったかなと
605
先週もちょっと言いましたが、三方ヶ原合戦は継戦が難しい夕刻から始まっているので、本格的な決戦を意図していたとは考えづらく、おそらくは何らかの遭遇戦から偶発的に起こった合戦だと考えられます #どうする家康
606
現在の研究では足利義昭は、この三方ヶ原合戦の時点では未だ信長との連携を守っていたと考えられています。義昭の信長からの離反はもう少し後ですね #どうする家康
607
この三方ヶ原の時「家康公を助けた」という伝承が三河遠江地域には山ほどあり、その殆どが「この礼として神君より○○のお墨付き、特権を許可された」という話とセットになっており、多くは江戸期に入ってそれら惣村、集団の既得権を幕府に認めさせるために作られた伝承と考えられます #どうする家康
608
何というか、エピソードの起承転結は意地でも一話の中でやるという強い意志をずっと感じる大河だ #どうする家康
609
実はどうもこの時期、傍証からではありますが畿内、特に都の民衆の間では武田信玄は人気があり、信玄の上洛を待ち望んでいたフシがあり、どうもそれは信玄の実態がどうこうというより、信長義昭政権の不人気がベースに有った感じがあります #どうする家康
610
家康「敵とは言え人の死を喜ぶとは何事か!」 寿桂尼が死んだ時喜びのあまり踊りだした信玄「おっそうだな」 #どうする家康
611
しかしこの大河、一連のお風呂シーンが合戦時よりスリリングである #どうする家康
612
まあこの「事件」から割とダイレクトに信康事件、築山殿処分につながりそう #どうする家康
613
築山殿が「自分の許可を取らなかった」といって激怒したのは歴史考証的にも実に正しい「怒り」です。これはイエにおける正妻の権限を侵害したわけですから #どうする家康
614
実際この子はめちゃめちゃ家康のお役に立った孝行息子になりました(俗説とは異なり) #どうする家康
615
マジかよ団子屋のババアの逸話持ってきたかw #どうする家康
616
茶店の婆さんが三方ヶ原逃走の折食い逃げした家康を追いかけたという逸話がこちら #どうする家康 銭取由来 iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-389…
617
健康の権化みたいに言われる家康だが、記録を見ると意外と病気等で臥せっていることが間々あり、健康に気を使うようになったのはそれらを乗り越えた晩年の事だったと考えられる #どうする家康
618
この五徳(徳姫)さん、何のかんので寛永13年まで長生きするんですよね #どうする家康
619
ここでは信長政権の体質を語っていますが、信長を継承した秀吉政権の体質も『際限なき軍役』と呼ばれたりします #どうする家康
620
まあ今週「逆賊」たる大岡弥四郎(大賀弥四郎)事件を描いて、来週長篠で徳川の歴史上、忠義の鑑ともいえる鳥居強右衛門を描くというのは、内容的にも非常に対照的ですね #どうする家康
621
文禄5年(1596年)伊達政宗が浅野長政(長吉)に絶縁状を送り付けたことで始まった伊達家と浅野家の絶交。これは江戸期に入って当事者達が亡くなっても続き幕府は何度か両家の間を取り持とうとしたが全て拒絶。両家が終に和解したのは何と398年後の1994年 #歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
622
なお、伊達政宗は浅野長政(長吉)が亡くなった14,5年後、茶人の佐久間不干斎に招かれた茶会で「私は弓矢八幡に誓って人を嫌うことはありません!但し浅野弾正(長政)の関係者とは同心出来ません。それ以外は誰とでも仲良くします!(意訳)」と言っているので、本当に心底嫌いだった模様
623
長篠城籠城戦。一説によると家康はこの戦いの前に長篠城を鉄砲での防御に特化した城に大改修しており、また射程の長い鉄砲を大量に配備するなどして、火線によって武田軍を近づけない戦略を用いたとされます #どうする家康
624
「上様は天下のことで精一杯」 実際この時信長は三好勢力との戦いのために畿内から身動きできない状況でした #どうする家康
625
「てんかー」 「ふぶー」 こんな掛け声はおそらく信長史上初めてでしょうねw #どうする家康