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ここで信長は「武田を抑える」と言ってますが、この時期武田と織田は絶賛同盟中ですw #どうする家康
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というかここ、本当に関ヶ原の小早川秀秋(俗説)をモチーフにしてますね #どうする家康
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ちなみに武田系の史書である『甲陽軍鑑』ではこの姉川の戦いを「信長は兵の少ない浅井相手に苦戦してた。あの戦いに勝てたのは家康のおかげ(意訳)」と評しています。まあここだけではなく甲陽軍鑑は信長への極端な過小評価が多いのですが #どうする家康
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ちなみに徳川系の史書である『三河物語』ではこの姉川の戦いの時、信長は大変フレンドリーで『三河家がわざわざご苦労さま!疲れてるだろうし2番手か3番手で参戦してくれたたいいよ!(意訳)」と家康に提案しています #どうする家康
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ところがこれを聞いた家康は「ハァ!?わざわざ三河から来たのに2番手とかナめとるんですか先陣やらせろ!さもなくばこのまま帰国する!!」と既に編成が終了していた信長を脅しあげて朝倉への先陣を勝ち取っています #どうする家康
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ホント広島が周辺県から尽く警戒されているの実に興味深いw
東西でここまで違うとは... 「苦手な都道府県といえば?」地域別マップが興味深い(2/4)|Jタウンネット j-town.net/2020/01/022992… @jtown_netより
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途中で何らかの解決が図られない場合、結果として戦国大名同士の大きな争いとなる、というケースの方が多いという印象があります。いわゆる「境目相論」というのもそういうものですね。戦国期、戦国大名が領域に責任を持つ「公儀」であると自己規定したことが、戦争の深化を促したとも言えそうです
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戦国期について、特にドラマなどで割りとありがちな捉え方の一つに、「無力な民衆たちは武士同士の争いに一方的に巻き込まれる被害者」というものがあり、そういった面も確かにあるのですが、実際にはその民衆の間で先ず紛争があり、有利な解決を期待して民衆の側が上級権力と結びつき紛争が拡大し
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戦国期、あるいは中世を『一揆の時代』と評することがありますが、アレはつまり、『一揆』という相当に社会的・心理的・宗教的に強制力の有る結合を選択しなければならないほど、そのままでは相互不信が強かった、という事でもありまして(一揆を結んでも平気で裏切りとかありますしね)
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中世、戦国期であっても、民衆と権力は基本的には対立関係・緊張関係に有ったわけではなく、一種の相互依存関係を成していた。という面はもっと認識されていいと思う。(ただし相互に信用していたわけでも何でも無く、一定の緊張関係の上の相互依存ではありますが)
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まあ実際には三方ヶ原まで、北条や上杉謙信と同盟したり武田と織田の婚姻を邪魔したりと信玄の神経を逆なでし続けたのが家康なんですけどねw #どうする家康
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なので信玄の「西上」も、信玄の「家康だけはぜーーーーったい許さねえ!!!」という3年間溜まりに溜まった鬱憤が爆発した結果だと、これは信玄自信が表明しておりますw #どうする家康
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織田といい武田といい、家康のまわりには蛮族しかいないのか。そりゃあ家康もいつまでも今川義元を慕うわけですわ #どうする家康
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後の秀吉との和睦の時にこの源三郎くんを人質に出そうとしたら母親の於大の方が猛反対したフラグ #どうする家康
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『甲陽軍鑑』に武田家の武士が「町人とかって武功をする人間は全員めちゃめちゃ剛力とか思いこんでるよねプゲラ」と町人の武士認識を嘲笑ってる描写があり、この大河は実にその「町人の認識」の映像化と言った観が #どうする家康
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まー今回の描写で武田義信が「こんな武田家は嫌だ父をなんとかして文明的な今川みたいにならないと」と思ったことは理解できる #どうする家康
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ちなみにこの大河、ベースの史実の流れについてはおそらく、黒田基樹先生の『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』を主に参考にしている感じがしますね
publications.asahi.com/ecs/detail/?it…
#どうする家康
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畿内が大変なことになってるのに「TKGRをしよう」で即座に駆けつけてくれる信長公もフットワークが軽いのか家康が大好きなのか #どうする家康
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この時信長は佐久間信盛を始めとして当時相当に重用し信用していたと考えられる人々を家康への援軍として送っているので、少なくとも外面的にも、信長が家康を救援する意思はかなり強かったと考えられます #どうする家康
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実は三方ヶ原合戦も昨今様々な説が出ていて、当初双方に決戦意図はなく遭遇戦のような形で衝突したのではないか、というものも #どうする家康
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この時信長は畿内では、浅井朝倉、再統一三好家や本願寺といった反信長・義昭勢力が再び活性化して窮地に追い込まれ、さらに信玄の挙兵を受けて足利義昭が反信長義昭勢力に接近するなどもはや畿内の保持も困難と考えられる有様でした #どうする家康
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この時期ルイス・フロイスは「三好勢が都を信長から取り戻すだろうが彼らは反キリスト教なので我々も迫害されるだろう。なので仮にそうなったときは、(都を放棄した)信長について岐阜へ行こうと考えている」などと報告しています #どうする家康
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三河衆の遺体がちゃんと全員武田軍の方を向いて倒れていないのはよろしくありませんな(大神君史観主義者) #どうする家康
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「三方ヶ原合戦」が徳川織田連合軍の敗北だったことは間違いありませんが、これを「徳川の壊滅的大敗」としたのは後世の、特にこの戦いに参加した徳川家臣やその子孫たちの都合による脚色も大きいと、個人的には考えております
#どうする家康
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何故なら三方ヶ原が大敗であれば有るほど、その戦いに参加した徳川家臣やその子孫にとって、彼らの徳川家に対する「忠義」「武功」がより強調され、自分たちの存在価値を徳川家に対して強く主張できるからです #どうする家康