551
あ、ちなみに武田信玄に「甲斐の虎」なるニックネームが付けられたのは、江戸時代です #どうする家康
552
何度か言ってますが
「甲斐の虎」武田信玄→龍朱印
「越後の龍」上杉謙信→獅子朱印
「相模の獅子」北条氏康→虎朱印
#どうする家康
553
まあ、お田鶴の方のお話自体は、ほぼほぼ後世の創作(もしくは勘違い)と考えられているわけではありますが
#どうする家康
554
正直、大谷翔平はもう神話上の人物に近いとすら思える。ああ言う人と同時代を生きることが出来た、というだけでも大きな価値があると言い切れる。
555
大谷翔平という存在がどれほど異次元かというと、今回のWBC「ベストナイン」が8人しか居ない、という所からも察せられると思う。本当に時空を歪めているw
556
諏訪頼重役:中村悠一は強そう。諏訪頼重史上最高に強そう。
#逃げ上手の若君
557
豊臣秀頼という人物は、関ケ原以降大坂の陣までの評価、特に外国人のものを見ると、本当に『徳川に天下取られたのに何も出来ない、というか城の中から動かない無能デブ』みたいな感じで、多分日本人の一般的な認識もそんな感じだったのだと思われる。
558
WBCの話題で、日本チームのベンチがアメリカなど他の国に比べてゴミひとつ落ちて無くてものすごくきれい、という話がありましたが、その反応の中で『むしろあんなゴミだらけのベンチで試合の集中力を維持できるメジャーリーガーって凄くね?』という意見があって確かにと納得してしまうなど
559
WBC優勝の時の侍ジャパンの胴上げが割りとアメリカなどでも話題になったらしいのですが、「胴上げ」の由来は諸説あるものの、そもそもが神事、祭事における行事だったことはおそらく間違いなく、日本に(限らず)よくある、意識されていない宗教行為の一つであるとも言えますね。
560
残念ながらそれは信長のセリフではないw twitter.com/an_shida/statu…
561
この家康の方針転換は武田を窮地に陥れ、信玄自信が「滅亡寸前」と言うほどの惨状となりました #どうする家康
562
実は家康と今川氏真の講和(明らかな徳川武田の約定違反)以降、苦しみ抜いたのは武田の側であり、家康はその外交的優位を用いまくって武田を徹底的に押さえつけました #どうする家康
563
この、信長が女性に戯れ絡んだ者を捉えさせ討ち取ったという話は、二条城建設の折のイエズス会の報告に出てきますね #どうする家康
564
ちなみに信長の上洛戦のとき、徳川の援軍が織田家の部隊と略奪した烏帽子一つを巡ってあわや合戦騒ぎになったという話が三河物語に出てきます
565
この信長は既存の「革新家信長」像と近年の中世における常識的武将としての信長像のミックスなんですね、基本的に #どうする家康
566
『甲陽軍鑑』には間々、「とにかく長くてクドくて前後の整合性もあまり考えていないように見える」文章があり、そういった部分は高坂(香坂)弾正の口述をかなり正確に記述したのだろうなあと感じる。
twitter.com/ujito2020/stat…
567
大河ドラマのタイトルの元ネタになったとも思われる、麒麟の「麟」の字を用いたと言われる織田信長の花押。しかしこの花押の文字、どうも同時代から何の文字が書かれているのか全く不明で、おそらく麒麟の「麟」だろうと比定されたのは、何と戦後の事。
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
568
本能寺の時の秀吉も本当にたまたま運が良くて後世言うところの「中国大返し」が出来たし、光秀に勝利したのも自前の兵ではなく信孝勢と合流した結果、摂津衆を取り込めたおかげだし、「織田政権」の主導権を握ったのは「清須会議体制」崩壊の中でだし。秀吉陰謀論って実はハードルが高いのですよね
569
この敦賀、後に家康の次男、結城秀康の領地となります #どうする家康
570
朝倉義景と信長の違いというのは、能力の差云々以前に、その置かれた環境の違いが大きいとも思う #どうする家康
571
「オレは客観的に正しいことをしてるんだからみんなは当然オレについてきてくれるよね」という独善的な信長の性格、実は本当に史料上顕れてくる割とリアルなものだったりします #どうする家康
572
この大河、群像劇というより、一種のオムニバスドラマみたいな構成してるなあ #どうする家康
573
今回来週と浅井がピックアップされるようですが、同時代の史料度を見ると、朝倉側からも信長側からも、この時期の浅井はあくまで朝倉の従属勢力と認識されており、「戦国大名」になりきれなかった存在だったと考えられます #どうする家康
574
まあ正確に言うと
×朝倉征伐
○信長「若狭武田氏の反義昭派の征伐に来たけどなんのかんのあって朝倉領に侵攻するわ」
#どうする家康
575
ちなみに浅井長政の「裏切り」ですが、当時の畿内の記録である『言継卿記』『多聞院日記』には双方とも、浅井は朝倉ではなく、六角氏勢力に同調して信長・義昭から寝返ったのだと書かれています。事実かどうかはともかく、同時期に畿内ではそう認識されていたのでしょう #どうする家康