まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(いいね順)

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実際この子はめちゃめちゃ家康のお役に立った孝行息子になりました(俗説とは異なり) #どうする家康
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戦費で西南戦争の意味を表しているのはエグいですね #青天を衝け
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このお話は、近年の家康研究の成果の反映というより、ナレーションで強調しているように「大神君家康」像の、つまりいわゆる「徳川史観」のリメイク、と理解したほうが良い気がする。 #どうする家康
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木下藤吉郎(秀吉)は、20代で既に織田家の奉行として尾張の在地行政に係わっていたフシが有るし、彼の弟の長秀(秀長)も、秀吉とは別個に信長に仕えていた(秀吉の配下に入るのは秀吉が西国を任されてから)ので、その出自はそもそも織田家と結びつきの強い家だったと考えたほうがいいと思う
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それにしても光秀を天皇に近づけたり家康を光秀に接近させたり、もしや三条西実澄黒幕説では #麒麟がくる
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建久3年(1192)に源頼朝は征夷大将軍に任官しますが、この時頼朝が朝廷に申請したのはあくまで「大将軍」の地位であり、これを受けて朝廷側は様々な消去法により「征夷大将軍」を選んだと考えられています。つまり、たまたまでした。 #鎌倉殿の13人
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実は「ペリー来航」について、イメージと異なり幕府側は充分に相手を調査し準備をした上で対応しており、ペリーはほとんど得るものの無いまま返されました #青天を衝け
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「戦が有れば、和議の仲立ちを務めるのが将軍」これはドラマの中の義昭の思いつきや言い訳ではなく、戦国期の将軍の有り方として非常に正しいわけです #麒麟がくる
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前にも言ったことがありますが、この頃の天皇家の「困窮」というのは、「年収数千万円で上流階級の生活をするだけなら問題はないが、数十億かかる国家的儀式を行うには足りない」という感じですね #麒麟が来る
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『愚管抄』の比企の乱が描かれた部分。『吾妻鏡』にある、比企能員が北条氏を追討しようとしたという話は、北条がクーデター的に比企氏を滅ぼした事を正当化するための捏造だった可能性が強いと考えられます #鎌倉殿の13人
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「北条氏展」という文字を見て、「ほうじょう…うじひろ?うじつら?そんな人居たかなあ」と30秒ほど本気で勘違いした夕暮れ
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あの、頼朝の冷酷さについていけなかった義時がこうなってしまうとはなあ #鎌倉殿の13人
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26日、後鳥羽上皇の仙洞に伺候していた平賀朝雅は、自分への討手が来ていることを知らされると、驚き慌てることも無く、冷静に後鳥羽上皇に関東より討伐の者たちが来ていることして暇を賜り、退出し宿舎の六角東洞院で鎌倉方の軍兵と激しく戦い、 #鎌倉殿の13人
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「室町しぐさ」は江戸しぐさと違って歴史的に実際に有った事で、基本的には日常の礼儀や人間関係に関する事例なのに、殺伐さの塊なので道徳教育には用いられない理不尽。
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足利義昭がボランティアに勤しむ慈愛に溢れた若者とかそんな設定誰も考えないだろw #麒麟がくる
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はい、こちらが前にもアップしましたが、「十三人合議制」の成立を表した『吾妻鏡』建久10年(1199)4月12日条 #鎌倉殿の13人
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ここの、栄一がわざわざ羽織袴姿で頭を下げて孫の敬三に進路先の変更を頼んだのは史実なのだそうです #青天を衝け
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文覚は同時代的にも相当胡散臭い人物と思われていたようで、『愚管抄』によると「文覚は行動力は有るが学問がなく、浅ましく人の悪口を言うとの評判である。 天狗を祀るなどとも言われている」などと書かれ #鎌倉殿の13人
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大正の時代も今も、感染症流行期の予防でやることは実際には変わらない、という事なのでしょうね
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戦国期について、特にドラマなどで割りとありがちな捉え方の一つに、「無力な民衆たちは武士同士の争いに一方的に巻き込まれる被害者」というものがあり、そういった面も確かにあるのですが、実際にはその民衆の間で先ず紛争があり、有利な解決を期待して民衆の側が上級権力と結びつき紛争が拡大し
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かつての頼朝と義時の関係性が、今は義時と泰時の関係性に #鎌倉殿の13人
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家康が時計の構造を調査させたことが、江戸期の和時計や様々なからくりの成立に繋がったりする
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この時の奏上で近衛前久は足利義昭からめちゃめちゃ恨まれて、彼の上洛後京を追放されます #麒麟がくる
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徳川家とは、今川、武田、北条という、「織豊」の東方の負け組を取り込み巨大化、強大化した存在であり、徳川家による天下統一とは、それら負け組の壮大な復活劇でもあったわけで。
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大姫、再来年の大河を予言してた説 #鎌倉殿の13人