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水戸浪士たちも「斉昭様のため」と桜田門外の変を起こしたが、当の斉昭はそれを全く望んでいなかったという #青天を衝け
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次回いよいよ『十三人合議制』誕生ですねー。こちらが鎌倉幕府のいわゆる『十三人の合議制』成立が記された、『吾妻鑑 正治元年四月十二日条』です。「等」と書かれているので、十三人はあくまで主なメンバーという事ではあったのでしょう。
#鎌倉殿の13人
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今回のタイトル『家康への文』、この時点では「松平元康」なのに、「家康」としたのは、視聴者にわかりやすくしたと言うよりも、この後彼が今川から独立し三河を取り戻し「家康」と成らしめた文、という意味なのでしょうね。 #麒麟がくる
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「歴史が役に立つのか」という話が色々波紋を呼んでいるようですが、歴史というものは端的に地域、社会、国家、或いは世界が現在に至る「経緯」であり、それぞれの経緯を正確に把握することは、将来に向けての筋道も、より摩擦のない形で指し示す事が出来るわけで、非常に重要な学問だと考えています。
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「島原の乱」は終始キリスト教信仰を理由とした宗教蜂起なんですよね。一揆側の幕府への要求はキリスト教信仰の公認だけであり、地域の政治や民生に関するものは一切ありませんでした。実は一揆の原因を「悪政」と定義したのは幕府の方だったりします。
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「どうする家康」の信康事件、あの事件を「関係者が誰ひとり傷つかない内容」にしたのは確かに凄い作劇テクニックでは有ると思うのですが、どこかもんにゃりするのは、あの作劇で「守っている」のは、歴史上の人物ではなく出演している俳優さんたちのイメージなんだろうな、との気持ちの為か
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『平家物語』「木曾殿最期」では、義仲の討死を見届けた今井兼平は坂東の武者に向かい
「これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」
と言うと太刀を口に含み、馬から飛び降りてその太刀に貫かれて死んだとあります
#鎌倉殿の13人
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確かに、『戦国○大梟雄』と呼ばれていた人たちの多くが「実際にはそんな事無い」「ほとんど後世の創作」みたいな形で梟雄レースからどんどん脱落していく中、斎藤道三だけは「間違いなく同時代から悪人」「むしろ後世のほうが人格的にマイルドにされてる」と評価を上げ続けている(?)の強い
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「中立な(客観的な)意見を聞きたい」という言葉の99%は「自分と同じ考えでそれを保証する意見を聞きたい」って事だよなあ、とか思う昨今。
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ここ凄いリアルなこと言ってます。→「本来は飾っておくもので」
#どうする家康
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主人公がメタメタにやられてカタルシスが得られる大河なんて初めてではなかろうか #鎌倉殿の13人
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伊予守は、頼朝、義経ら河内源氏の祖である源頼義が叙任されている源氏ゆかりの官職であり、「四位上﨟」と称される受領の筆頭格でして、大変な厚遇と言えますね
#鎌倉殿の13人
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家康は「忍耐の人」と言われがちですが、それはあくまで家康側の主観、或いはそう受け取って欲しいイメージに過ぎず、武田など敵対した側からすれば、自分の優位な点を常に計算しつつ陰に陽に弱点をネチネチと攻め続け音を上げれば一気に食らいつく恐ろしい相手なのであり
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渋沢篤二は栄一の長男としてはこの後も含めて色々アレでしたが、彼の子、つまり栄一の孫である渋沢敬三はたいへん傑物で、今も渋沢家が尊敬されているのは敬三の功績も大きいですね。あと栄一そっくり #青天を衝け
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ものすごい身も蓋もない話をすると
Q:「何故『吾妻鏡』には、畠山重忠が無実であることがはっきりと書かれているのですか?」
A:「このあとの牧氏事件で北条義時が父・時政を追放したことを正当化するためです。」
というロマンもへったくれもない物になってしまい。
#鎌倉殿の13人
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この佐々木秀義の子孫は武士の時代を通じて力を保ち、結果的に明治まで大名として存続しました
#鎌倉殿の13人
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北条義時は史実でも、見る角度次第で物凄い陰謀家にも見えるし信じられないくらいの巻き込まれ系主人公にも見えるわけで、この手の義時認識の齟齬は今後ドラマの中でも、特に京都との関係で描かれていくのだろうとは思う #鎌倉殿の13人
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本多平八郎忠勝は、孫で千姫が再婚した本多忠刻が、当時江戸の町でハンサム見物の大渋滞が出来るほどの超有名な美男子だったらしいので、忠勝もおそらくハンサムであったと考えられます #どうする家康
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ちなみにこの義時の言葉を、を細川重男先生は、『クソ親父!オレたちを騙して、ダチを殺させたな!』(講談社選書メチエ『北条氏と鎌倉幕府』)と訳しました
#鎌倉殿の13人
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この時信長は佐久間信盛を始めとして当時相当に重用し信用していたと考えられる人々を家康への援軍として送っているので、少なくとも外面的にも、信長が家康を救援する意思はかなり強かったと考えられます #どうする家康
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このあたりから頼朝と義経の関係に齟齬が出来たというのはわりと古典的な解釈で、昨今では、この時期は未だ頼朝も義経も信頼しあい関係も良好だった、という考え方が主流だと思います #鎌倉殿の13人
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そういえば和田さん、牧氏の変のとき実朝に「起請文なんて書いても後で破いちまえばいいんですから」と言ってましたなー
#鎌倉殿の13人
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歴史上、武士社会における「源頼朝」登場のインパクトというのはやはり物凄いものがあって、後に武家を統率する立場の者達が、征夷大将軍やら右近衛大将やらに任官するのも、要は「源頼朝の立場を継ぎます」という表明なんですよね #鎌倉殿の13人