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同じ兄弟殺しでも斎藤高政と信長の違いは、その対象に自身が向き合ったか否か、という所なのだろうか #麒麟がくる
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信長が家康に下した「高天神城の降伏を許容するな」という話、信長からの強圧的な命令と認識されがちですが、実際の信長からの書状を見ると『私はそのように思うのですがいかがでしょうか?そちらの御家中でよく話し合って良い結論を出してください(意訳)』という感じで、非常に丁寧 #どうする家康
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桜田門外の変、幕府の公式の記録だと井伊直弼は『急病のため急遽幕府に相続願いを出し、それが受理された後病死』となっていたりします。井伊家を断絶させないための措置ですね
#青天を衝け
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岩倉具視の廻りに氷塊が置いてあるのはこの明治天皇の岩倉邸行幸の絵を参照にしてますね
#青天を衝け
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徳川家康公、『麒麟がくる』(戦国末期)、『青天を衝け』(幕末明治)、『鎌倉殿の13人』(鎌倉初)と大河ドラマ3作品年連続登場の快挙。次作は主人公なので4年連続。さすが武家政権の集大成者は違う。
#鎌倉殿の13人
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「嫡子以外はすべて出家させるという足利家の習い」これをきっちり言った大河は初めてでは #麒麟がくる
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武士団とも平然と渡り合う安房の漁師の皆さん強すぎる。さすが自力救済の世
#鎌倉殿の13人
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確かにこれを見ると、青天を衝けの最初の方で描かれていた、何のかんので法や慣習で秩序が保たれていた江戸時代のなんと文明的なことか #鎌倉殿の13人
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文禄5年(1596年)伊達政宗が浅野長政(長吉)に絶縁状を送り付けたことで始まった伊達家と浅野家の絶交。これは江戸期に入って当事者達が亡くなっても続き幕府は何度か両家の間を取り持とうとしたが全て拒絶。両家が終に和解したのは何と398年後の1994年
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
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この「自分が他人を殺すのは正しいことだが、他人が自分を殺すことは絶対許されない」感、素晴らしい #麒麟がくる
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細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(講談社選書メチエ)にある、細川先生の北条義時評。細川先生は中世史研究者界隈でも、最も義時に同情的な方だと思う。
#鎌倉殿の13人
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既に「藤井棋聖は藤井聡太に当たらないアドバンテージが有る」とか言われてるの面白いw
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ライ麦や燕麦が、もともと小麦畑の雑草であったのが、雑草が人間によって引き抜かれる中に、たまたま小麦と似た形状に進化したものが出て、そのため人の目をごまかし雑草として駆除されることを免れ、あまつさえ穀物化した、という話は面白いし進化の不思議さも詰まってる。
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北条時政が「首チョンパ」と言ってしまうのが令和の大河かw #鎌倉殿の13人
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幕末に、幕府が不人気だったということについて、結局幕府が行った「開国」は、当時の一般庶民の視点からは、インフレや疫病といった、不利益ばかりをもたらした、百害だらけの政策だったわけです。だからこそ、それを是正しようとした長州などが「世直し勢力」として人気がありました。彼らこそ
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ここにおいて北条政子が事実上の「鎌倉殿」となったわけですね #鎌倉殿の13人
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秀吉末期の徳川家というのは、当主である家康本人が「羽柴一門」筆頭であっただけでなく、嫡男の秀忠も秀吉から完全に特別扱いされており、個人ではなく「徳川家」そのものが羽柴(豊臣)政権の柱石として秀吉から待遇されていたらしい、というのが昨今のこの時期の研究認識
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「織田様の手先になってから戦戦戦…」
実際、織田信長に従った大名国衆で謀反するものが多かったのは、前線地域での過剰な軍役の負担に領民が耐えられなくなり、その地域の領主が領民を繋ぎ止めるために信長から離脱、というパターンが多かったとも言われます #どうする家康
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【速報】今気がついたけど今週誰も死んでない
#鎌倉殿の13人
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比叡山が信長に反抗する理由を、光秀が「カネ」というのは、最初の頃、京に上がる時に比叡山から関銭を取られたことを未だに根に持ってる説
#麒麟がくる
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「こんばんわ、徳川家康です」かなり強烈なフレーズですよねw #青天を衝け
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戦国史に限りませんが、体制を覆す側、下剋上をする側の方が「有能かつ進歩的」であり、体制側、下剋上をされる側が「無能で保守的、退嬰的」という考え方、或いはイメージはいわゆる進歩主義史観の「公式」に歴史を当てはめたにすぎず、その実態とは正直あまり関係ありませんね。
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これすなわち、久秀が死して織田家に仕掛けた爆弾正炸裂である、という事なのでしょうね #麒麟がくる
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昨今だと、考古学的研究から、この時の焼き討ちでの、比叡山自体の被害はそれほど大きくはなかった、と言われますね。ただ麓の坂本などは大々的に焼かれた模様 #麒麟がくる
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鎌倉幕府があくまで「坂東武者のため」ものであることを今回再認識していましたね。実際に鎌倉幕府はその終焉まで、頼朝の挙兵に従った御家人とその子孫のための組織であり続けました
#鎌倉殿の13人