まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(いいね順)

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まあ家康の話に限らず、戦国武将(にも限りませんが)について現代人が面白がったりドラマチックに感じたりするような逸話はその殆どが後世の作り話と捉えておいたほうが良いですね。逆に、後世の作り話だからこそドラマチックで面白くしているわけです。
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中世に一般的に見られる「紛争を暴力で解決する」という感覚について、室町期くらいから法によってそれを抑制しようという働きかけが見られ、戦国期に至って「私的な暴力の行使はダメ!絶対!」として、法と裁判での解決への誘導、すなわち「喧嘩両成敗法」が生まれるのです。
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家康「何が面白いんじゃ」 視聴者「確かに」 #どうする家康
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何をどう解釈して本照寺をあんなFFとかに出てきそうな宗教軍事都市みたいにしたのかw  #どうする家康
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鎌倉幕府は後醍醐天皇らによる元弘の乱で、江戸幕府は長州征伐でそれぞれ『武威』の限界が露呈した瞬間に配下勢力への統制が崩れ滅亡に至るわけで、軍事的覇権こそが存在の基盤であった辺り、実に武家政権らしいと言えます。え?室町幕府?うーん…。
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よく秀吉の死後、家康が様々な陰謀を駆使して「豊臣勢力」を追い込んでいったと考えられがちなのですが、実際には陰謀を駆使していたのは反徳川勢力の方で、家康はそれらに対処し一つ一つ潰していった事で結果的に天下の主権者になってしまった感があります。
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ものすごく正直に言うけど一向宗を何だと思っているんだw  #どうする家康
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本願寺の大阪退去まで木津川口周辺はずっと毛利水軍が抑えており、「制海権」はまるで確保出来ていなかった模様。そりゃあ「鉄甲船」が後世に継承されないわけですね。
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何故か最初に、諏訪法性兜を被ったイエス・キリストという感想が脳裏に twitter.com/nhk_koufu/stat…
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戦国武将の「異名」は近現代に成立したものも含めて山のようにあるのだけれど、おそらく同時代でもそう呼ばれていたであろう「お館様」で即座に通じてしまう武田信玄は強い。
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ちなみにこの八田知家、平家追討の時、頼共に無断で任官してしまい「怠け馬が道草を食うようなものだ!」と罵倒された経験があります。 #鎌倉殿の13人
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大久保忠教は「三河物語」の中で織田信長を、少なくとも対徳川家に関しては、ほぼ終始一貫して徳川家に対しての理解者であり、徳川家中の者達に非常に甘い、と描写しています。無論これもある種の「徳川史観」ではありますが、少なくとも徳川家中に、信長への一定の好印象があったと見ていいのではと
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しかし実態としては毛利や大阪の三奉行の加担した大規模な反徳川の挙兵だったわけです。しかし「東軍」としては当初からそのような「ストーリー」で事態を理解しており、結果的に、勝利した東軍はこの認識のまま事態を処理し、この東軍の理解が「歴史認識」として定着したわけです。
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織田信長は天正2年11月に権大納言・右近衛大将に任官して、いわゆる公家の仲間入りをするわけですが、それと同時に公家・門跡の借銭破棄を認める徳政出したり義昭幕府から没収した土地を公家に分配したりと信長自身もかなりの負担を強いられていて、信長が任官に慎重だった理由もなんとなく見えてくる
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これは確かに厭離穢土 欣求浄土を唱えたくなりますわ #鎌倉殿の13人
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自分が追討対象になっていることを知った忠重は、この事体から逃げず、潔く戦うことを選んだ、とされます。 #鎌倉殿の13人
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一種の諦観すら感じられる 中世武士選書45 足利義輝と三好一族――崩壊間際の室町幕府 歴史、城郭、神道など書籍の出版・販売|戎光祥出版株式会社 ebisukosyo.co.jp/item/612/
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と言うか『腰越状』の文章は全体的に非常に軍記物のノリが強く、書状でこんな事書くか?という疑問は出ちゃいますねw #鎌倉殿の13人
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じゃあ何で本願寺退去という結果に至ったのか、というと、当時の瀬戸内の航行は基本的に沿岸沿いに沿って進むしか無かったのですが、秀吉の毛利勢力圏への侵攻が進み、また宇喜田を寝返らせたことで、毛利勢力圏から大阪への船舶交通が非常に困難になった事が大きいのですね。
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というか、関ヶ原のような政権傘下の大名同士の大規模で全国的な衝突に対して傍観しか出来なかった時点で豊臣体制、豊臣公儀というものは実質的に崩壊しているわけですよ。応仁の乱で曲がりなりにも東軍西軍に対し主体的に交渉し和平までもっていった当時の室町幕府より終わっているわけですよ。
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実に水戸烈公ですな 水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見 : 読売新聞オンライン yomiuri.co.jp/culture/202212…
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で、何で石田三成が「西軍」の首謀者とされたかというと、会津征伐の段階で、家康は三成を警戒し動向を監視していたらしいのですね。で、いざ西軍挙兵となった時、家康は三成と大谷吉継が接触していたことは把握しており、そこから石田三成と大谷吉継の小規模な謀反が起きたと認識していた模様で
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『吾妻鏡』建保4年(1216)11月24日条 実朝は陳和卿に言われた前世の居所である、宋の医王山を訪ねるため陳和卿に唐船の建造を命ずる。これに対し北条義時と大江広元が強く諌めたが、実朝は聞き入れなかった。 #鎌倉殿の13人
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中世武士の性格を定義する上で『舐められたら殺す』は専門家が見ても端的に「これだ!」というセリフだったんですよね。
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「鎌倉武士」に対する伝統的な評価は、それこそ畠山重忠を代表とした「気は優しくて力持ち」「勇猛でありつつ純朴」というような、「健全性」の代表のようなものであり、そういった感覚は例えば司馬遼太郎の鎌倉武士に関する文章などを見てもありありと感じることが出来るわけでして。