まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(いいね順)

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言われていることが実にごもっともな上にいちいち面白いw電子書籍版もあるのでオススメです 戦国日本の生態系 庶民の生存戦略を復元する honto.jp/ebook/pd_32238…
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それはそうとして、今回の大河、徳川家は信長に散々世話になっているのにむやみやたらに「信長は嫌だ嫌だ!!」って言うのちょっと酷いなあともw 実際の徳川家中の信長の評価はどうだったかというと、例えば後世の軍記ではありますが「三河物語」では信長について殆ど批判は見られないわけでして
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まー、家康の特性として「我慢」「堪忍」「忍耐」なんかが美徳として強調されたのは、あくまで後世の都合からであり、実際の家康とは正直何の関係もないですね。
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『吾妻鏡』建保4年(1216)6月条によると、東大寺大仏の再建を担った宋人の僧、陳和卿が鎌倉に来て「当将軍(実朝)は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」などと言い出し、 #鎌倉殿の13人
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群参していた武士たちはことごとくこの命に応じた。むせび泣いて返答の出来ない者も居た。 彼らはただ、命を軽んじて恩に報いることを思った。 #鎌倉殿の13人 吾妻鏡では政子自身ではなく、政子の側で安達景盛が読み上げたとあります。
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『信長公記』は、後世編纂の軍記物ながら史料として高く評価されていて、一部界隈ではある種の絶対的権威と扱われていたりしますが、あの本、例えば足利義昭について、京都追放以後は「存在していない」ものとして活動を完全無視しており、信長美化のためにそう言う事をする本である、との認識も必要
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ハサウェイ見ながらふと思いついた鎌倉武士の倫理観 逃げれば1つ 進めば2つ 族滅させれば全部取り
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外国人の観察でこの家康政権のもたらした平和を「日本人自身が信じられないほどの事だった」と書いているものもありますね。そしてその平和は無論大きな歓迎をされました。だからこそ大坂の陣では、浪人以外に、「平和を壊した」大阪方に与同する勢力がほぼ皆無だったわけです。
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そう、松代は徳川幕府の重要拠点の一つであり、真田以前は家康に近い親族か非常に親しい譜代が任されており、そこを真田が任されたというのは将軍家からの絶大な信頼を顕していると言ってよく twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…
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『吾妻鏡』健保七年一月二十七日条では、義時が突然気分が悪くなったので、刀を源仲章に渡して退去したのだと書かれています。そもそも身分的に入ることが出来なかったと取れる愚管抄の記事と比較して、吾妻鏡の潤色であると捉えられる事もある記事ですね。 #鎌倉殿の13人
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逆に言えば現在社会における大小様々な「問題」が、何故そうなったという経緯、すなわち「歴史」を理解しなければ、それを解きほぐすための手順も見えてこないわけですね。「問題」も様々な積み重ねによって出現するわけですから。
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真面目な話、関ヶ原後の吉川広家による家康に対する弁明「輝元はバカだから安国寺恵瓊と石田三成に騙されたんです!バカだから!」を受け入れた家康も家康だけど、この弁明方針を許容した輝元も、人物として相当のものが有ったんじゃないかと感じないでもない。
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中世、戦国期であっても、民衆と権力は基本的には対立関係・緊張関係に有ったわけではなく、一種の相互依存関係を成していた。という面はもっと認識されていいと思う。(ただし相互に信用していたわけでも何でも無く、一定の緊張関係の上の相互依存ではありますが)
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つまり鎌倉幕府とは、武士と言っても本来的にはその一部に過ぎない、頼朝の挙兵に与した坂東武者とその子孫の利益を代表する組織でしかなかったわけですね。
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戦国期の『一向一揆』が宗教的熱狂から来る運動であり、ある種のカルト的現象だとする見方もまだまだ多いですが、実態を見るとあくまでその地域地域の中核寺院を権威とした集合に過ぎず、教義についてほぼ関係なく、何なら本願寺派同士で頻繁に争っており、宗教性を強調しすぎると解らなくなりますね
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そうそう、よく戦国大名は「農村から兵を徴収した」と、今でも勘違いされがちなのですが(で信長が兵農分離で云々かんぬんとか)、実際には惣村にかけられた軍役で提供の求められた人材は、輸送などのための「非戦闘員」としてであり、基本的に戦国大名は「百姓」を戦力として期待していませんでした。
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しかしそういう事だとすれば、豊臣(羽柴)宗家まで巻き込んでおきながら、勝ち筋が無いと見るや即座に東軍と勝手に和議を結んだ「総大将」毛利輝元という人物はちょっと信じられないくらいの胆力を感じますね、或いは無責任力。
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和田合戦が、ある種の終着であり起点にも成っていましたね #鎌倉殿の13人
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今川、武田、北条は、織豊に確かに敗北したが、だからといって織豊に劣る者達ではなかった事を、「江戸幕府」の成立は顕している、とも思うのだ。
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これは食べ続けたから「進化」したのではなく、それぞれの集団において、例えば日本なら海苔を消化できる事が生存において有利だったので、何らかの突然変異などで海苔を消化出来る個体が発生しそれが海苔を消化できない個体よりも生き残り、遺伝により勢力を広げた、という事でしょうね twitter.com/_596_/status/1…
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関ヶ原の西軍を「豊臣方」とする考え方が今も根強いですが、その総大将である毛利輝元は明らかに「秀吉の体制をぶっ壊す」側だというのがまた
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何より天ぷらが入ってないのが偉いし家康への愛を感じる 家康公の好物、弁当に 静岡県飲食業生活衛生同業組合浜松支部(あなたの静岡新聞) #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/ccab4…
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こちらが将軍頼家より連判状を見せられ弁明を求められた梶原景時が、弁明せず、所領である相模国一宮に退去したことが記された『吾妻鏡』正治元年11月12、13、18日条 #鎌倉殿の13人
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谷口雄太先生の『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』より。やはり『バンデット -偽伝太平記』がこの界隈に与えた影響の大きさを感じざるをえないのであるw 足利将軍と御三家 yoshikawa-k.co.jp/book/b612232.h…
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まあ、お田鶴の方のお話自体は、ほぼほぼ後世の創作(もしくは勘違い)と考えられているわけではありますが #どうする家康