まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(いいね順)

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ちなみに『吾妻鏡』健保七年一月二十七日条では、義時は「突然気分が悪くなった」ために、源仲章に太刀持ちを変わってもらったとあります #鎌倉殿の13人
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もう現時点での癒やしは和田さんと三善さん、あと北条時房くらいか。数少なくなってしまった #鎌倉殿の13人
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世良田、徳川は「新田源氏」であり、当時新田源氏は幕府より「足利御一家」とされ、その家格を高く評価されていました。家康の改姓は敵対していた三河の吉良氏、そして今川氏が足利一門であったことからの対抗上のものだったともされます #どうする家康
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徳川家康、江戸幕府が秀吉の政権から教訓を得たとすれば、第一に「恣意的に権力を用いるのは体制にとってろくなことがない」という面だと思う。
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#鎌倉殿の13人 ちなみに『愚管抄』によると、仁田(日田)忠常は、北条義時と戦って死んだ、とあります。
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豊臣秀頼という人物は、関ケ原以降大坂の陣までの評価、特に外国人のものを見ると、本当に『徳川に天下取られたのに何も出来ない、というか城の中から動かない無能デブ』みたいな感じで、多分日本人の一般的な認識もそんな感じだったのだと思われる。
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本能寺の時の秀吉も本当にたまたま運が良くて後世言うところの「中国大返し」が出来たし、光秀に勝利したのも自前の兵ではなく信孝勢と合流した結果、摂津衆を取り込めたおかげだし、「織田政権」の主導権を握ったのは「清須会議体制」崩壊の中でだし。秀吉陰謀論って実はハードルが高いのですよね
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現代の極端に戦闘的な「薩摩隼人」イメージは、絶望的な戦況の中で「狂戦士」に成らざるを得なかった西南戦争時の西郷軍のそれを過去に訴求させた面が非常に多いと思っている。太平洋戦争末期の特攻玉砕の日本兵士像が過去に遡及されたようなものかと。
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毛利は、関ヶ原の印象と幕末の印象から、江戸時代を通じて幕府から警戒される「雄藩」だったと考えられがちなのですが、実際には江戸期を通して世間的に、幕末ギリギリの段階まで、何をやらせてもダメな「ボンクラ藩」という印象だったらしく。
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リアルに考えると、主の身代わりになるような娘なら、あんなオドオドしてる子ではなく、相当の身分有る譜代の子女の内から選び、主に変わって嬉々として死に赴くような娘であるべきでしょうね #どうする家康
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実は鎌倉幕府って「公儀」と呼ばれていないんですよね。武家政権が「公儀」と呼ばれるようになったのは室町幕府から。鎌倉幕府は良くも悪くも「公(おおやけ)」の権力とは認識されていなかった。
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なので慶長五年の「関ヶ原」において、豊臣奉行衆が「反家康」で蜂起したというのは、(そこまでの経緯や内部的事情はともかく)表面的には秀吉晩年の意図に反した行動であったといえます。
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そーか、W杯で日本が逆転勝利をしたのはこれが初めてなのか
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『愚管抄』巻六より、実朝殺害についての記事 公暁は実朝殺害を成功させると三浦義村の元に行き、これを報告しており、義村もこの事件について何らかの関与が有ったことを匂わせますが、義村はこの事をすぐに義時に伝え、義村を通しての義時の関与も疑わせる所があります。 #鎌倉殿の13人
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フェルシーちゃん「兄弟喧嘩で死ぬなんて馬鹿みたいじゃないですか!!!」 源頼朝・義経「おっそうだな」 足利尊氏・直義「いかにもいかにも」 織田信長・信勝「激しく同意」 徳川家光・忠長「兄弟で命のやり取りとか引くわー」 #水星の魔女  こうか
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戦国期、有力国衆であっても大勢力の参加に入ると、わりと存在感が見えなくなったりするものなのですが、徳川家康という人は織田や豊臣という大勢力の参加に入っても存在感が減るどころか、むしろどんどん増していく感があり、やはり個人としても、非常に優秀な人だったのだとも思う。
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「徳川家康」を見る上で、「今川権力の継承者」という側面は割と大切だと思う
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ドラマの中では省略されましたが、『吾妻鏡』建久4年8月10日条によるお、範頼の家人・当麻太郎が、範頼の起請文への反応がないことに不安になり、頼朝の寝所の下に忍び込むという事件を起こし、この事で頼朝は範頼の叛逆を確信したとされます。 #鎌倉殿の13人
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ちなみに『保暦間記』によると義時は近習の小侍に突き殺されたとあり、これは承久の乱で多くの人々を殺した事の報いであったとしています。 #鎌倉殿の13人
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しかしこの大河、一連のお風呂シーンが合戦時よりスリリングである #どうする家康
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織田信長が本願寺との戦いの中、第一次木津川口の戦いで毛利水軍にボッコボコにやられ、その後第二次木津川口の戦いではいわゆる「鉄甲船」でその毛利水軍に大勝したと「信長公記」は書いているものの実際には多分勝ててない、という話も最近は徐々に定着していますが、実は織田水軍、
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まー、実際には一揆との講和の後、一揆との戦争時に出された徳政令の扱いが問題となり、家康側から一種の折衷案が出されたものの一揆側がこれを拒否したため、その判断に対しての処分として、一揆側寺院の破却だったりします  #どうする家康
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徳川は結果として旧主であった羽柴宗家(豊臣家)を滅ぼしたために、後世において秀吉期の徳川家に対する非常に高い待遇と期待をあえて「過小評価」した面があります。で、「石田三成」が秀吉の威を借りて徳川を滅ぼそうと嫌がらせをし続けた、みたいな話に。
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まあ買うよね。これは面白いです
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WBC優勝の時の侍ジャパンの胴上げが割りとアメリカなどでも話題になったらしいのですが、「胴上げ」の由来は諸説あるものの、そもそもが神事、祭事における行事だったことはおそらく間違いなく、日本に(限らず)よくある、意識されていない宗教行為の一つであるとも言えますね。