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そういえば、北条義時が現状どんな立場で頼朝の政権に参画しているかというと、彼は「家子専一」、つまり頼朝の親衛隊長という立場なんですね。江戸期で言うと旗本筆頭といった所でしょうか。
#鎌倉殿の13人
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想像以上にTDLのシンデレラ城を「下総舞浜城」と呼ぶ行為は浸透していない模様
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本圀寺の変は、信長に頼らず義昭勢と畿内の義昭派大名で三好勢を撃退しており、寧ろ義昭が自身の武威に自信を深めた事件だったとも言われますね。ここで本国寺に馳せ参じた軍勢を「足利方」と言っているのは非常に正しい #麒麟がくる
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この大河、現状歴オタ的な視聴をしてしまうと「それはいつどこであって何の史料に出てくる戦いなんだよ!?」みたいな、(多分ドラマ的には)どうでもいい疑問が駆け巡ってしまい、内容が頭に入ってこないのである。 #どうする家康
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歴史好き界隈で良く言われる、前田利家と織田信長が衆道関係にあったという話はあくまで後世の俗説で、信長の寝室の警護も含めて、やっていたことは馬廻りの仕事ですね。信頼はされていたと思います。 #利家とまつ
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武家政権というものも、それぞれテーゼみたいなものがあって、鎌倉幕府は「御家人のための権力」、室町幕府は「北朝の守護者」だと考えているのですが、では江戸幕府は何かというと、端的に「元和偃武」、つまり日本における武力紛争の停止、であったと思っております
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ちなみに徳川系の史書である『三河物語』ではこの姉川の戦いの時、信長は大変フレンドリーで『三河家がわざわざご苦労さま!疲れてるだろうし2番手か3番手で参戦してくれたたいいよ!(意訳)」と家康に提案しています #どうする家康
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対平氏が終わって、これでいよいよこのドラマの本題に入っていく感じですね #鎌倉殿の13人
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実は家康と今川氏真の講和(明らかな徳川武田の約定違反)以降、苦しみ抜いたのは武田の側であり、家康はその外交的優位を用いまくって武田を徹底的に押さえつけました #どうする家康
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さすが毛利元就公のご先祖
#鎌倉殿の13人
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自分で丹念に育て上げた鷹を、平然と外交のコマにできる辺り、朝倉義景は土岐頼芸と違う、という事を表していますね #麒麟がくる
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三浦義村はたしかに義時を裏切ることは出来ないのだな…
#鎌倉殿の13人
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幕府興隆の生贄であるかのように苦しみ、のたうち回りながら、その苦しみからの救いとしての死を迎えるわけで、物語としては「陰惨」とも言えるでしょう。そしてこの陰惨さは泰時期という例外はありつつも、基本的に鎌倉時代を通しての、この政権の終焉までの一面の性格ともなります。 #鎌倉殿の13人
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しかし義村の手腕で三浦が大きくなりすぎたことが後々… #鎌倉殿の13人
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「信康事件」に関しては、現在は家康が家中の問題として処分を行い、信長は家康からの求めに応じてそれを承認した、と考えられていますね #麒麟がくる
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そしてこちらが、梶原景時による結城朝光讒訴事件を受けての、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状について記された『吾妻鏡』正治元年10月28日条
#鎌倉殿の13人
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実際に明智軍として本能寺攻めに参加した武士の記録(本城惣右衛門覚書)によると、侵入してもほとんど敵と遭遇しなかったとか #麒麟がくる
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徳川家康がその政権を確立したのは、関ヶ原での勝利という「武威」が大きいですが、彼の政権が定着したのは、その関ヶ原から大坂の陣までおよそ14年間、日本国内の戦争、紛争がほぼ停止された、つまり「平和」を実現したことが最も大きいと考えられます。
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戦国期、特に後期の「武田、上杉は天下最強」という評価、現代では様々な研究の成果等から「それは過大評価」という見解も多いと思いますが、実はこれ、信玄謙信が争っていた同時代から畿内でもそのように言われており、実態はともかく同時代の世間一般の認識でもそうだった、という事は確かなようです
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家康が月代を剃る前と剃った後で、ドラマの雰囲気自体も大きく変わりましたね。偉いものです #どうする家康
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この朝倉阿君丸の存在が、割と本気で歴史を変えたと言われたりしてますな #麒麟がくる
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しかし鎌倉がこれだけグチャグチャなら後鳥羽院じゃなくても早々滅びると思っちゃいますね、鎌倉幕府
#鎌倉殿の13人
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三条西実澄(実枝)は、細川藤孝に古今伝授をした人でもありますね。また朝廷の長老で、信長からも非常に信任された公家でもあります。
#麒麟がくる
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『天穂のサクナヒメ』、戦国時代版とか出来たらプレイヤーはさぞブチ切れる内容になるでしょうねw敵勢が攻めてきたら稲を勝手に刈り取られるだけならまだしも、田んぼを綺麗に掘り返して、それまでの営みを正しく台無しにして行きますから