「講義中、スマートフォンを使用してOKです。調べ物やノートテイクなど、自由に使ってください。」と伝えている。すると、ゲームやSNSをする学生は予想以上に少数で、それどころか講義の調べ物に没頭します。学びたい学生が快適に学べる環境を保障することって、大切だと思うんですよね。
「私、不注意性が強いので・・」と伝えると、不注意性を改善するためのアドバイスを戴くことが時折あるのですが・・。困っているのは不注意性という自身の特性ではなく、不注意性のない人達の価値観に無理矢理合わせることにより生じるストレスなんですよね。。
障害があると「頑張る」という部分がクローズアップして美化されがちだけど、他の人が当たり前に出来ることを頑張って出来る様になったとしても、自尊心は正直上がりにくい。他の人が当たり前に出来る部分は頑張るのではなく、何らかの代替手段を活用しながら「頑張らずに」出来る経験が大切だと思う。 twitter.com/i/web/status/1…
黙って大人しくしている子って、「手のかからない子」と教師から認識され、つい放置されがち。ただ、SOSを表出出来ないという意味では、実は気をつけないといけないんですよね。
不登校の原因はいじめなど対人関係だけでなく、理由もなく襲われる不安、気分の落ち込み、神経症など要因は様々。学校に行けない理由が本人にも分からない場合もあり、学校に行こうと頑張ってしまうが故に余計に苦しむ場合がある。不登校=学校に行く努力をしない‥という訳では決してないんですよね。
「学校に適応できない=社会に適応できない」ではないし、学校でうまくいかなくても社会で頑張れるケースは山程ある。大切なのは、子供達が「自分は社会に適応できない存在」という思い込みで絶望しない事だし、そうならないためにも大人が子供達に負のレッテルを貼らない事が大切だと思う。
「雪が降ったら会社は休む」を有言実行していた父。昔は適当な人間だと思っていたけれど、「怪我する方が職場にも家族にも迷惑がかかる。休むのは権利だから。」の一言は、今になって振り返るとその通りだと思う。「休む」は自分のためでもあるけれど、他人のためでもあるよなぁ・・と。
「助けを求めれば、助けてくれる人がいる」という見通しって、すごく大切だと思うんですよ。見通しがあれば動けるし、動けば成功体験が生まれ、気持ちに余裕が生まれる。すると、「助けを求められた時に助けることができる」に繋がる。 子どものうちに助けを求める経験を重ねるって、大切。
相手に遅刻の連絡をする際に、焦って「○時○分には着きます!」と限界ギリギリの時間を伝えてしまい、結果的に「二重の遅刻」をすることとなり、自ら相手のストレスを増幅させるという自殺行為をなんとかしたい案件。。
過去に一度だけ「大学の先生なのに、なんで丁寧に教えないんだ!」とクレームが入ったことがある。その時、「教えるから考えないし、考えないから学ばないんですよ。大学は教えられて勉強する場所ではなく、学ぶ場所です。」と答えた。後悔はしていない。
私は人の顔と名前が覚えられない。苦肉の策で、名刺交換の際に「私、どうしても顔と名前を覚えられなくて‥。次お会いした際にまた名刺を渡そうとすると思います。その際は、無礼をお許しください‥。」と先に謝る様にしたところ、本当に忘れても笑い話にして頂ける様になったんですよね。対策は大事。
障害のある人を取材した番組って、「出来ないことが努力で出来る様になる」という部分が美談としてクローズアップされがちだけど、それって多くの人にとっては必要ない努力な訳だし、テクノロジーや制度を活用して「努力なしで出来る様になった!」の部分がクローズアップされて欲しいんですよね。
「大きな声で話しなさい!」と怒鳴られ、萎縮して余計に話せなくなるケースは多い。大きな声で話すことを他人に強制する人っているけれど、小声でボソボソ話す人の方が優しそうで話しやすいし、それも一つの魅力。価値観の押し付けで個性を壊す指導って、どうしても「勿体ない」と感じてしまうのです。
算数障害(ディスカリキュリア)は発達障害の一種で、数字の概念理解や計算に極端な困難さが生じます。また、数字や計算に関すること以外は困難さが生じないため、診断されないケースも多くあります。故に周りから理解されない事も多く、配慮が得られないどころか努力不足と言われてしまうんですよね。
九九の覚え方って「いんいちがいち、いんにがに・・」のイメージが強いと思うのですが、視覚的に覚えた方が覚えやすい子、書いた方が覚えやすい子など、実は多様です。覚える手法の一つとしては良いのですが、子供達を算数嫌いにさせないためにも、合わない子には他の方法を模索することも大切かと。
「スカートを穿いて何の運動ですか?」とよく聞かれるのですが、運動をしている意識は全くありません。穿きたいから穿く、それだけです。 むしろ、「スカートを穿く人=運動している人」と、そう解釈されない社会になって欲しいと切に願います。
不注意性が強いのに「私、メモしなくても大丈夫です!」と言ってしまうなど、本人が困らずに周りが困るケースって本当に難しい。本人が自身の不注意性を理解して受け入れるためにはある程度のキャパが必要な訳で、キャパを育てるのが結構長い道のりだったりするんですよね。
読み書き困難の子に対する指導って「読めない・書けない」に焦点があたり、読み書きの訓練ばかりされがち。でも本当に解決すべき問題は、宿題に他の子の何倍も時間がかかる、本読みなどの活動で置いていかれる、必死で頑張っても黒板の字をノートに写せない等、ストレスによる学習意欲の低下なのです。
「得意を伸ばす大切さは理解できますが、苦手を放置するという部分に納得いかなくて‥」と質問されたので、「放置ではなく、”苦手”に取り組むために必要な学習方法を”得意”を使って学ぶ訳です。苦手を努力で克服するのは辛いので、得意な部分からアプローチする方略です。」と答えたら、ご納得頂けた。
学校に休まず行くことって美化されがちだけど、身体や心が悲鳴を挙げていたら休まないといけない。子ども達に休まない事を求めるのではなく、子どもが自分の意思で自分のペースで学校に来れたことを大切にしたいと思う訳です。
聴覚過敏って「全ての音が苦手」と誤解されがちですが、音の種類によっても異なるし、音の来る方向やタイミングが分かれば逆に楽しめる事も多い。大切なのは「聴覚過敏=音が嫌い」と勝手に決めつけるのではなく、辛そうにしている目の前の人が「音の何が辛いか」を知ろうとする事だと思うんですよね。
市長という立場の方が「障害の社会モデル」を認識して市政に携わっているのは、実は画期的なことだと思う。障害は人ではなく社会に存在するものであり、障害を解消することは、全ての市民にとってメリットがある。この視点で市政をするとどう変化するか、専門家の立場と明石市民の立場から注視したい。 twitter.com/izumi_akashi/s…
昔、校庭の隅でポツンと一人でいた時に信頼できたのは、手を引っ張る人ではなく、優しい笑顔で隣に座ってくれた人。「一緒に行こう」と言う人ではなく、「ここにいたい」を大切にしてくれる人。そして、自分本位で関わる人ではなく、僕の気持ちに寄り添ってくれる人でした。
多様性っていうと、なんか「良いこと」というイメージが付き纏いがちですが、決してそんなことはなくて、「人は多様である」という当たり前のことを、きちんと当たり前だと認識しよう‥ということだと思うんですよね。 多様性を「良いこと」と認識していると、それって持続しない気がします。
運動場の片隅でポツンと座る男の子。 その隣で優しい笑顔で座り、その子の「ここにいたい」を大切にする先生。手を引っ張る訳でもなく、「一緒に行こう」と言う訳でもなく、その子の気持ちに寄り添っていた。 その男の子は30年後、気持ちに寄り添うことの大切さを伝える仕事をしています。