のび太が授業中に居眠りをするのは、のび太が早寝で規則正しい生活を送っていることを鑑みると、睡眠障害かストレスが原因で、本人には非がない可能性が高い。 それなのに大声で叱られたり、公衆の面前で馬鹿にされたりするのは、理不尽極まりない話なのだ。 あっ、、現実にある話ですので。。
友人から仕事ができない部下をどうすれば良いか聞かれたので、「出来ない仕事を責めるのではなく、出来る仕事を増やしてみたら?」と答えた。 数日後、「部下が出来る仕事を用意すると、予想以上にできる事が分かった。役に立っている想いからか部下が頑張る様になった」とのこと。何より。
不注意性が強い子に必要な力は「忘れ物/落とし物をしない」ではなく、不注意性を前提とした生き方を模索する力。忘れ物/落とし物をする前提で準備する力、気づいた時に冷静に対処する力など。そのためには、自身の不注意性を受け入れるためのキャパが必要。
読み書きに困難さがある子の中には、他の子が30分程度で出来る宿題であるにも関わらず、4時間かかって泣きながら取り組むケースがあるという現実を、多くの人に知ってほしいです。
読み書き困難で小中高で辛い思いをした子が、大学生になった。 「今、めちゃくちゃ勉強が楽しい。合理的配慮を主張しなくてもスマホやパソコンを使って講義を受けれるじゃないですか?何より周りの目を気にせず勉強できるのが嬉しい。」 これが小中高でも当たり前になってくれることを切に願う。
「残さずに食べましょう」と指導するより、「残さない様に選んだり量を調整したりしましょう」と指導する方が大切だと思っている。そもそも食べられる量には個人差がありますよね。 全てにおいて言えることだが、個人差を前提とした指導デザインが普及することを切に願う。
「社会人になったら助けてくれる人はいないので、支援を徐々に減らす努力をしましょう。」ではなくて、「社会人になったら自分から言わないと助けてくれないので、自らの特性を知り、支援があれば出来ることを知り、支援を要求するスキルを身につけましょう。」なんですよね。
合理的配慮って「他の人と同じになる」を目指すものではなく、他の人と異なる方法を尊重することなんですよね。
サラダの取り分け、お酌、タイミングを見計らったオーダー・・・これらのスキルが強要されない集団に属するだけで、人生は3割ハッピーになると、割と本気で思っている。
学習障害は読み書きの困難さに着目されがちですが、読み書きの負担により「思考する余裕がない」ことが実はかなりの問題です。学びは思考によって生まれます。考えて試行錯誤することで知識は形成されます。読み書きに負担がかかると、思考する機会が奪われ、学びの機会を失う訳です。
「講義中、別に寝てもいいし、廊下に出てもいいよ。」と学生には伝えている。睡魔は生理現象だし、睡魔と戦う無駄な時間を過ごすくらいなら、少し寝たり廊下を歩いたりする方が効率的だと思うんですよね。第一、睡魔を生み出したのは自分ですから、学生を叱る理由がないのです。
「持ってくるのを忘れました。次は気をつけます。」言われたので、「気をつける…という費用対効果が低い根性論よりも、ラクして持ってこれる方法を考える方が大切だよ。とりあえず、iPhoneならSiriにお願いしてみたら?」と答えた。翌週「Siriのおかげで持ってこれました!」と満面の笑顔。良かった。
学校などで行われる障害疑似体験って、障害について理解するという点では良いけれど、それだけだと辛さを強調するだけで終わる危険性がある。 個人の見解だけど、辛さを解消する方法について考え、一緒に楽しめる方法を主体的に模索することまで含めて、ようやく障害理解に繋がると思う次第。
「残さずに食べましょう」と指導するより、「残さない様に選んだり量を調整したりしましょう」と指導する方が大切だと思っている。そもそも食べられる量には個人差があるのに、無視されがちなんですよね。しかも、苦しんで食べているのに「早く食べなさい!」と言われた日には・・。
「好き嫌いをなくしましょう」の意味は、「嫌いなものを無理矢理食べましょう」ではなくて、「好きなもの、食べられるものを増やしましょう。」なのかと。茄子は煮浸しは無理でも揚げ茄子なら大丈夫・・など、選択肢を増やすイメージ。楽しく食べるって、生きる上でとても大切なことですよね。
昔、和食屋でバイトをしていた。不注意性が強くミス連発で落ち込む僕に「お前に完璧なんて期待してへん。大事なのは、なんとかしようと工夫するお前のその気持ちやねん。ミスは俺が責任とったる。明日の仕込み、頼んだで。」と言ってくれた料理長の一言は、今も学生と接する際に心がけている。
「障がい者のために社会が配慮すべき」と言うから反発が生まれるのであって、「障害の有無に関わらず、全ての人がメリットを感じられるデザイン」を開発すれば良いと思う訳です。。
「発達障害に見えない」のは、特性が表に出ない様に全力で隠している可能性があります。隠すということは、かなりのストレスがかかる訳で。。ストレスで倒れる寸前のタイミングで「それは発達障害じゃないよ。大丈夫!」と言われた時の心的ダメージは計り知れない。
友人から「部下が何度言っても指示通り動いてくれないんだけど・・」と相談されたので、「口頭指示をやめてメモ書きやメールで指示してみたら?」と伝えた。後日、友人から「書いたら驚くくらい伝わった!書いて気づいたんだけど、これまで私の指示が抽象的だったのかも。。」とのこと。何より。
「何度叱っても、反省の色がない」とはよく言いますが、反省すべきは何度も同じ叱り方をする自分自身だったりするんですよね。叱る際に正しい行動を具体的に示し、正しく行動することのメリットを伝え、相手を観察し、正しく行動した際は確実に褒めないと、何度叱っても行動って変わらないんですよね。
「社会人になったら自分から言わないと助けてくれないので、自分の特性を知り、支援があれば出来ることを知り、支援を要求するスキルを身につけましょう。」なのですが、前提となる「助けてもらう必要性に気づく」ためのハードルが結構高いんですよね。
障害支援や合理的配慮って「特別扱い」と非難されることがあるのですが、そもそも全ての人が特別扱いされるオーダーメイドな社会を目指せば、全ての人がパフォーマンスを上げることが出来るんですよね。(しかも、テクノロジーの発展により、実現すること自体は可能。)
漢字の書き取りの宿題をやる息子と、字の汚さを指摘をしない妻。「だって、漢字の書き取りの目的は字を覚えること。字を綺麗に書かせたいなら、それを目的とした習字やペン字でやるべき。そもそも、大人は色んなことを求めすぎ。だから嫌いになる。」の一言に妙に納得した週末の夜。
「この子は優秀だから大丈夫。」と聞いた時は、必ず待ったをかける様にしている。優秀な子の中には、水面下に「出来ないことを許せない」「出来ないことが怖い」といった気持ちが潜んでいる場合があります。そこをスルーしていると、致命傷になるケースがあるんですよね。。
昔、校庭の隅でポツンと一人でいた時に信頼できたのは、手を引っ張る人ではなく、優しい笑顔で隣に座ってくれた人。「一緒に行こう」と言う人ではなく、「ここにいたい」を大切にしてくれる人。そして、自分本位で関わる人ではなく、僕の気持ちに寄り添ってくれる人でした。