ADHD(不注意性、多動性、衝動性)の話をすると、「私の方がひどい。それって甘えじゃないの?」と言われる事がありますが、注目すべきはこうした症状の程度ではなく、症状により生じるストレスを受け止める「キャパ」に個人差がある部分なんです。ここって意外と見逃されがちな部分なんですよね‥。
スーパーで意識を失って倒れた後、買い物をしていたお客様の中に看護師さんがいたらしく、痙攣の状態を把握して救急車を呼び、救急救命士に私の状態を伝達してくれたとカルテの記録で知る。御礼をご本人に直接言えないのは辛いですが、この場を借りて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
障害のある人を取材した番組って、「出来ないことが努力で出来る様になる」という部分が美談としてクローズアップされがちだけど、それって多くの人にとっては必要ない努力な訳だし、テクノロジーや制度を活用して「努力なしで出来る様になった!」の部分がクローズアップされて欲しいんですよね。
息子がスケートボードを習い始めた。教室の方針に「挨拶はしっかりとする」と書かれていたので、大きな声で挨拶をするのかと思いきや、挨拶がまさかのグータッチ👊。なるほど、これなら声が出せない子でも挨拶ができるし、自然と笑顔が生まれる。「挨拶=大きな声」は思い込みだなと痛感した出来事。
「友達100人出来るかな?・・出来ません。大切にしたい人を大切にして、それ以外の人とは適度に付き合いましょう。傷つける人からはそっと離れましょう。そうしないと精神病みます。」と学生に伝えている。自分はこの呪縛から脱却するのに時間がかかって苦しんだ人なので、敢えて伝える様にしている。
私は人の顔と名前が覚えられない。苦肉の策で、名刺交換の際に「私、どうしても顔と名前を覚えられなくて‥。次お会いした際にまた名刺を渡そうとすると思います。その際は、無礼をお許しください‥。」と先に謝る様にしたところ、本当に忘れても笑い話にして頂ける様になったんですよね。対策は大事。
障害があると「頑張る」という部分がクローズアップして美化されがちだけど、他の人が当たり前に出来ることを頑張って出来る様になったとしても、自尊心は正直上がりにくい。他の人が当たり前に出来る部分は頑張るのではなく、何らかの代替手段を活用しながら「頑張らずに」出来る経験が大切だと思う。 twitter.com/i/web/status/1…
「困難さに配慮する必要性は分かるけれど、配慮しないと動けない子になりますよね?」と言われた際は、「配慮を受けて『出来た!』という成功体験を積めば、本人に意欲が生まれ、むしろ自ら動く様になります。発想を変えて、自ら動くための配慮をしてみませんか?」と伝えると、意外と納得頂ける件。 twitter.com/i/web/status/1…
何回も言うけれど、学校でうまく適応できないからって、社会に適応できない訳ではない。学校でうまくいかなくても社会で活躍するケースは山程ある。少なくとも、子ども達の未来の可能性を、大人が「社会で通用しない」という負のレッテルを貼って潰すことだけは避けるべきだと思うんですよね。
「怒鳴りつける指導」は、単に怒りに任せて怒鳴っておけば相手が萎縮して言う事を聞くので、「指導がうまい」と錯覚する。自分が錯覚するだけならまだしも、ある意味成功体験なので、他の人にも強要する。そして、それが伝染する。まさに負のループである。
「持ってくるのを忘れました。次は気をつけます‥。」と学生から言われたので、「気をつける‥という根性論よりも、ラクして持ってこれる方法を考える方が大切だよ。とりあえず、iPhoneならSiriでリマインドしてみたら?」と答えた。後日「Siriのおかげで持ってこれました!」と満面の笑顔。良かった。
社会の「当たり前」を見直せば、能力を発揮できる人って沢山いると思う。6時間労働だとバリバリ働ける人、昼寝すれば仕事に集中できる人、昼出勤だと能力を発揮する人、静かな部屋だと集中できる人‥などなど。「人類、皆同じ。」という固定観念、そろそろ辞めてみませんか?
障害のある方に対する偏見や差別意識が強ければ強いほど、病気や怪我で障害のある側になった瞬間、自分自身を苦しめることになる・・という事実だけは一応お伝えしておきますね。
昔はスカートを穿いて大学構内を歩いていると「!?」という感じで見られたのですが、スカートを穿いて一年半、最近は逆にパンツ姿で歩いていると「!?」という感じで見られる。結局、違和感なんて「日常からのズレ」にすぎないんですよね。
「制服のせいで学校に行けない。」という子供達は少なくない。ジェンダーマイノリティに加え、感覚過敏や精神疾患など、制服を着れない要因は多様。そして、制服を着て学校に行くのは当然ながら辛い訳ですが、それ以上に辛いのは「制服くらい我慢すれば?」と周りから思われることなんですよね。
子どもが不登校だと「学校でいじめられたの?」とレッテルを貼られがちですが、不登校の原因は心的不安、無気力、学習面の悩み、家庭の問題など様々。そして、本人ですら学校に行けない理由が分からないケースは多い。「不登校の理由は多様」という事実が広まるだけでも、救われる子は多いんですよね。
障害や困難さがあると「他の人が無意識に出来ることを”頑張って”出来る様にする」がゴールにされがちだけど、理想のゴールは「他の人が無意識に出来ることを、代替手段や社会的なリソースを使いながら”頑張らずに”出来ること」だと思う。だって、多くの人はそこで頑張らずに済む訳ですから・・。
聴覚過敏って「全ての音が苦手」と誤解されがちですが、音の種類によっても異なるし、音の来る方向やタイミングが分かれば逆に楽しめる事も多い。大切なのは「聴覚過敏=音が嫌い」と勝手に決めつけるのではなく、辛そうにしている目の前の人が「音の何が辛いか」を知ろうとする事だと思うんですよね。
合理的配慮って「障害者の要求を一方的に受け入れる」とネガティブに捉えられる事があるけれど、大切なのは過度に構えず、「そうか・・○○が辛いんだね。」と気持ちを聞き、「ちょっとした工夫で解決できないかな・・?」と”持続可能な”解決策を模索することなんですよね。
講義の最後に「質問ありませんか?」と言っても、手は上がらない。そこで、「講義の感想を隣の人と共有して、質問を考えてみましょう。質問を思いついたらチャットで送ってね。」と伝えたところ、質問が来る様に。質問ができない事を責めるのではなく、質問しやすい環境で経験を重ねる方が大切かと。
「学校に適応できない=社会に適応できない」ではないし、学校でうまくいかなくても社会で頑張れるケースは山程ある。大切なのは、子供達が「自分は社会に適応できない存在」という思い込みで絶望しない事だし、そうならないためにも大人が子供達に負のレッテルを貼らない事が大切だと思う。
「イライラすると廊下に飛び出す子がいるのですが、どうすれば防げますか?」と質問されたので、「廊下に飛び出さないを目指すのではなく、廊下に飛び出す理由を子供に聞いてみませんか?」と伝えた。後日、「教室で爆発しないために飛び出した模様です。本人に聞くって大切ですね。」と報告。嬉しい。
読み書き困難の子に対する指導って「読めない・書けない」に焦点があたり、読み書きの訓練ばかりされがち。でも本当に解決すべき問題は、宿題に他の子の何倍も時間がかかる、本読みなどの活動で置いていかれる、必死で頑張っても黒板の字をノートに写せない等、ストレスによる学習意欲の低下なのです。
「みんなは我慢しているのに、あなただけ我慢しないのはワガママだ。」というロジックって未だに根強く残っているのですが、我慢の程度って個人差が大きいし、誰もが同じ労力で我慢できる訳ではない。そもそも我慢せずに済むデザインを考えた方が、皆にとってメリットがあると思うんですよね。
「障害のある方の立場に立って考えましょう」は確かに大切だけど、「世界が違いすぎて、障害のある方の立場に立って考えることは難しい」という前提の方がはるかに大切。だからこそ、想像して相手の立場に立ったつもりになるのではなく、知識や対話を通して相手を知ろうとすることが大切なんですよね。