話したくない子に無理やり話をさせようとするのではなく、 ・話したくないという気持ちを尊重する ・話しても大丈夫という安心感を生み出す ・話したい気持ちをそっと支える ・話を優しく聞く ・話せた事を一緒にふんわりと喜ぶ ・・そんな関わりが大切だと思う訳です。
「褒めて伸ばしましょう」的なやり方って、子育てや社員教育の世界でよく言われる訳ですが、個人的には「他者から認められたり任されたりする経験を通して、主体的に取り組める活動を増やしましょう」の方がしっくりくるんですよね。
「忘れるなら、なんでメモしないの?」とよく言われるのですが、メモをする前に記憶が賞味期限を迎え、忘れるのではなく消えてしまうのです。脳から消えないように努力を試みる訳ですが、努力をするべきタイミングで「努力しないといけない」という記憶自体が消えてしまっている訳です。。
「我慢すること」を教えるなら、同時に「我慢しないこと」も教える必要がある。誰かに助けを求めるスキルは、生きる上で必要不可欠な力だと思う訳です。
「全ての生徒に優しい授業なんて無理」というのは正論なのですが、だから排除しても良いという理由にはならない。優しくしようとしてうまくいかない授業と、最初から諦めている授業には差があるし、この差って生徒には伝わるんですよね。
「大学院に行くなんて無駄。早く就職して社会に出た方が良いに決まっている。」と言われて落ち込む学生がいたので、「必死で悩んで選んだ進路に一方的にダメ出しされると辛いよね。相手の選択を尊重してくれる人を大切にすると良いと思うよ。」と伝えておいた。
「雪が降ったら会社は休む」を有言実行していた父。昔は適当な人間だと思っていたけれど、「怪我する方が職場にも家族にも迷惑がかかる。休むのは権利だから。」の一言は、今になって振り返るとその通りだと思う。「休む」は自分のためでもあるけれど、他人のためでもあるよなぁ・・と。
出来ないことの「克服」に対するサポートは手厚いのに、「楽しい」「面白い」的な意欲や主体性を生み出すサポートって、なかなか着目されないんですよね。。
10年前、「パニック障害で講義が受けれないので、配慮して頂けませんか?」とお願いされたので、「分かった。あと、講義に出ると息苦しくなるなら、いつでもこの部屋で休憩していいよ。」と伝えた。部屋によく遊びに来た彼は卒業して社会で活躍中。大切なのは「配慮を活用した成功体験」なんですよね。
「障害のある人には優しくしましょう。」的なことってよく言われがちですが、障害のある人に「優しく」するのではなく、「障害を解消してお互いがwin-winになれる社会をつくりましょう。」なんですよね。
叱れば叱るほど自分の指示に従う「良い子」になるかもしれませんが、同時に「言われたことしか出来ない」リスクが増えるんですよね。「最近の若い子は言われたことしか出来ない」と嘆く前に、自分自身が相手の失敗を責めていないかを今一度確認することが大切だと思う訳です。
「子供の好き嫌いをなくすにはどうすれば良いですか?」と聞かれたので、「嫌いなものを無理矢理食べさせるとトラウマになってしまいます。嫌いなものをなくすのではなく、好きなものを増やすという感覚はいかがでしょうか?」と答えた。幼少期に大切なのは、食べるのを嫌いにならない事なんですよね。
学生には「就活は良い企業に就職するための活動ではなく、自分の特性や性格とのギャップが少ない仕事を探す活動。正直、働いてみないと分からないから、ギャップが大きければすぐに辞めれば良い。解決困難なギャップを埋めようと努力すると心が病むからね。」と伝えている。教え子が病むのは辛いから。
過去に一度だけ「大学の先生なのに、なんで丁寧に教えないんだ!」とクレームが入ったことがある。その時、「教えるから考えないし、考えないから学ばないんですよ。大学は教えられて勉強する場所ではなく、学ぶ場所です。」と答えた。後悔はしていない。
「講義中にトイレに行きたくなる可能性があるので、途中退室を許可して下さい。」とお願いされたことがあって、以降「全ての」学生の一時退室を許可してみた。すると、結果的にパニック障害や感覚過敏の配慮にもなったのです。個別の配慮を全体に広げれば、多くの人が恩恵を受けると思うんですよね。
「大学で退室するのに許可がいるの?」的なコメントを頂いておりますので補足しますが、許可は要りませんし、私も一時退室を許してきました。ただ、それを「公言」しないと、部屋から出にくいのです。今回の論点は許可するしないではなく、「公言」の有無です。
バスで移動中、女性が苦しそうに座っていた。耳に指を入れていたので、音に過敏で苦痛を伴う聴覚過敏を疑った。「静かにする様にアナウンスしましょうか?」彼女が強く頷いたので、乗客の皆さんにお願いした。対応が正解かどうかは分からないが、可能性を知っておく事の大切さを実感した出来事だった。
美談に思われると嫌なので補足しますが、実際は「すいません。。実は体調不良の方がおられるので。。」的な弱い感じのアナウンスです。バス内に団体さんがいて、通常よりかなり騒がしい状態で、あまりにも辛そうだったので本人の意思を確認し、そっとアナウンスした・・という話です。
「学校には行きたいけれど、環境がしんどくて‥どうしよう‥。」と相談されたので、「学校は水中と同じ。息を止めて泳いで、苦しくなったら息継ぎをすれば良い。まずは息継ぎできる場所や人を探そう。」と伝えたところ、楽になったと報告。ストレスが減る見通しを視覚的にイメージするって大切だなと。
「人権週間だから○○君と遊んであげましょう。」と担任に言われ、外に出れなくなった彼。自分もクラスメイトに「人権週間だから遊んでやる」と言われてきた人間だからこそ、彼の辛さが痛いほど分かる。言った側を責めるつもりはない。ただ、言葉が持つ凶暴性を常に自覚しないといけないと強く思う。
「年越しそば、どん兵衛にする?」に、「やったー」と喜ぶ子供達。世間的には手抜きと言われるかもしれないけれど、手抜きで生まれた時間を家族と共有できるのであれば、こんなに素敵なことはない。 手抜きで皆がhappyになれる方法を模索するって、実は大切な事だと思うんですよね。
「長所を伸ばしましょうと言われたのですが、息子の長所が見つからなくて‥」と相談されたので、「長所って他人と比較してしまいます。長所を伸ばすのではなく、本人が『出来た!』と感じる瞬間を探して、そこから出来ることを増やしてみませんか?」と答えたところ、長所が見つかったと報告。何より。
学習障害などで読み書きに困難さがあるからって、読み書きが嫌いと決めつけない方が良いです。「出来る・出来ない」と「好き・嫌い」は別の話。大切なのは、”出来ない”を”出来る”にする事に執着するのではなく、”好き”を大切にして増やしていくことだと思うんですよね。
「障害の有無に関わらず、誰もがオシャレできる世の中にしたい」と言うと、「オシャレなんて後回しだろ。お前は実情を分かってない」的な批判を稀に頂戴します。確かに優先順位が低い人はいるでしょう。でも私は、オシャレしたい人が当たり前にオシャレ出来る社会を目指したい‥ただそれだけなのです。
僕の不注意性を叱るのではなく、「忘れてるでww」と笑って言い続けた両親。僕が忘れない様に視覚支援するなど、今考えると先進的だった。お陰で自分の不注意性を自覚したし、早い段階で工夫することの大切さに気づいた。そんな息子は父親になり、今は息子達に「忘れてるでww」と言い続けている。