不登校の子供達の気持ちを理解する事って、本当に難しい。大人は子供に気持ちを聞こうとするけれど、子供が自身の気持ちを理解できない場合もある。「何故学校に行けないのだろう‥」と本人がモヤモヤしているのに、「なんで来れないの?」と強引に理由を聞かれるのは、きっと辛いと思うんですよね。。
市長という立場の方が「障害の社会モデル」を認識して市政に携わっているのは、実は画期的なことだと思う。障害は人ではなく社会に存在するものであり、障害を解消することは、全ての市民にとってメリットがある。この視点で市政をするとどう変化するか、専門家の立場と明石市民の立場から注視したい。 twitter.com/izumi_akashi/s…
「講義を休みたい時は、嘘をついてズル休みなんてする必要ないよ。まぁ心配にはなるので『USJ行ってきます!』とメールを送ってね。」と学生には伝えている。体調不良になりやすい人って実はかなり多く、休暇を保障するだけで安心して働ける。 「安心して休める社会」って、必要な気がしませんか?
今まで聞いた中で好きな実践。聴覚障害があるAさんがいるクラスで、子供達から「みんなでカルタをやりたい。でも、普通に読んだらAさんが聞こえないから、(読み札を)テレビに写して欲しいです。」と提案されたというもの。提案した子ども達もすごいし、こういう雰囲気を作った教師もすごい。
補足・・子どもが主体的に関わることを批判している訳ではありません。6年生が1年生を・・も別の話です。「お世話」というワードと、ワードに含まれる感覚の話です。
学校で障害のある子に対する「お世話係(お世話係的な声かけを含む)」って、本当に辞めた方が良い。お世話する側は「なんでお世話しないといけないの?」となるし、される側は「なんでお世話されないといけないの?」となる。インクルーシブ教育どころか、両者の間に壁が生まれるだけなんですよね。
障害のある人に対する配慮って、「苦しさや不便さの解消」に着目されがちですが、「他の人と同じ様に楽しめない」という部分を解消することも同時に大切だと思う。苦しさや不便さが解消されても、他の人と同じ様に楽しめなければ恩恵が少ない。「楽しむための障壁を解消する」って、実は大切だと思う。
学校現場で「特別扱いはできない」という理由で、一方的に合理的配慮を拒まれる(話し合いの機会すら拒まれる)ケースは残念ながら未だに残っている。学校は「特別扱い」というけれど、障害や困難さにより1人だけ他の子供達と授業を受けられない状態そのものが「特別扱い」だと思うんですよね。
書字に障害があり、頑張れば字を書けるけれど、逆に言うと過度に頑張らないと字が書けないAさん。そんなAさんの担任から「iPadを渡し、タイピングで書く練習をさせたところ、『作文が楽しい!言いたい事がありすぎて何を書こう‥』と笑顔で言ってくれたんです!」という話を聞いた。素敵なエピソード。
「大きな声で話しなさい!」と怒鳴られ、萎縮して余計に話せなくなるケースは多い。大きな声で話すことを他人に強制する人っているけれど、小声でボソボソ話す人の方が優しそうで話しやすいし、それも一つの魅力。価値観の押し付けで個性を壊す指導って、どうしても「勿体ない」と感じてしまうのです。
障害体験って「障害のある人はこんなに辛い」の様に、人に対してネガティヴな意識を植え付けがち。それよりも「こんなところに自販機があったら、車椅子ユーザがジュース買えへんやん!」的な、社会にあるバリア(障壁)に対してツッコミを入れ、解決策を模索する経験の方が大切だと思うんですよね。
ごはん→汁物→おかず→牛乳・・と一口ずつローテーションする【三角食べ】を子供達に強制するケースによく出会いますが、食材が口の中で混ざる事が苦痛な児童にとって三角食べは恐怖でしかない。三角食べを含め食べ方は自由だし、そもそも食べる楽しさを教える事を忘れてはいけないと思うんですよね。
「僕は遅刻しても叱りませんし、必ず笑顔で迎えます。遅刻してしまうと授業に行く気力がなくなると思うのですが、それでも授業に来れたことは本当に凄いこと。だから、遅刻しても諦めずに来てくださいね。」と伝えた。気圧が変動し精神的に不安定になる6月だからこそ、配慮の大切さを痛感している。
展示で見たマグネット付きの物差し&下敷き。手先の巧緻性がなく力加減の調整が苦手でも、綺麗に線を引ける。素敵。一方で「普通の物差しが使えなくなったらどうするの?」と言う人がいるけれど、まずは綺麗に線を引く経験が大切で、経験を積めば自信がついて普通の物差しを使う様になるんですよね。
「エレベーターの鏡は髪型やメイクを直すためのものではなく、車椅子ユーザがバックで出るためのバックミラーなんです。」と伝えると、一部の学生から「知らなかった!」という反応。「鏡は車椅子ユーザのために設置されたものですが、多くの人の役に立つ。この感覚を知ってほしいです。」と伝えた。
車椅子ユーザが店頭で服を購入することに躊躇する理由。「通路が狭い」「試着室が使えない」的なものを想像しがちだけど、これらに加えて「車輪が当たって商品が汚れないか?」「床に並べられた靴を踏んでしまわないか?」があったりする。だから改善‥ではなく、知る事で生まれる工夫ってあると思う。
数年前、講演に全盲の方が来られていたので、パワポのスライドありきの講義ではなく、音声のみでも楽しめる様に【ラジオのDJ】感覚で講義をしてみた。すると、感想に「講師が楽しそうに話していて、こちらまで楽しくなりました」など、全体の評価が高くなった。気づきをくれた全盲の方に感謝しかない。
盛大にバズってるので補足。「崖の上から落とさないと育たない」「甘やかしだ」的な論調があり否定はしませんが、最初から質問できる人は少ない訳で、「まずは質問することを楽しむ」→「質問したくなる」→「実名で質問する」というスモールステップな選択肢があっても良いと思う訳です。
使ったのは以前バズった際にご紹介頂いたComment Screen(コメントスクリーン)というサービスです。20人以下であれば無料でお試しできます。 machikado-career.com/2020/04/15/com…
オンライン講義で「質問のある方はチャットに書き込んで下さい!」ってよく言うけれど、学生の立場からするとかなり質問しにくい事に気づいた。そこで、匿名で画面上にコメントが流れる「ニコニコ動画方式」を導入したところ、あまりにも自然に質問が出てきて驚いたんですよね。
「低気圧で頭痛がする‥。」「メンタル低調で外に出るのが辛い‥。」という状態て欠席しても、簡単に「サボり」のレッテルを貼られてしまう。学ぶ意欲があるのにレッテルを貼られるほど辛い事はない。そういう意味で、外に出ずに済むオンライン講義って、学びの保証の観点で素敵な選択肢なんですよね。
「先生はなぜ、障害のある方にそこまで配慮出来るのですか?」と聞かれたので、「障害があるから配慮しているのではなくて、目の前の人全員に配慮している感じかな。目の前の人が楽しんでくれたら、なんかオモロいやん。」と答えた。そう、障害があるから配慮している訳ではないんですよね。
「校則がないと荒れる」という部分は強調されるけれど、「生徒の意思を尊重しないと荒れる」という部分が抜けている気がするんですよね。。(生徒のわがままを聞くという話ではなく、生徒の気持ちを教師が理解しようとするという意味です。) 気持ちを育てるには、気持ちを大切にする必要があるかと。
「クラスの子供達が反抗的で、何を言っても指示に従わないんです。」と相談されたので、「子供達の行動を『反抗的』と捉えるのではなく,『子供達からのSOS』と捉えてみて下さい。その中で叱るとどうなるか‥という事です。」と伝えた。以降、子供達の話を聞く様になり、クラスが落ち着いたとの事です。
「相談があるんですけど‥」と言われ、話を聞いているうちに号泣される事が比較的多いのですが、ひたすら話を聞いて頷いて、泣いてもらう様にしている。そういうケースは相談がある訳ではなくて、辛さを吐き出したいSOS。相談は質問された時に返したら良い話なので、アドバイスはしない様にしている。