「スカート姿、純粋にカッコいいです!」と、学生から言われた。スカートは体温調節や着脱のしやすさなど、障害や困難さのある方にとってメリットが沢山ある。だからこそ「男性のスカート」という選択肢が当たり前になって欲しいと願うおっさんは、若者から認められてちょっと嬉しい。
繰り返しますが、学習障害などで読み書きに困難さがあるからって、読み書きが嫌いと決めつけるのは本当にやめた方が良い。「出来る・出来ない」と「好き・嫌い」は別次元の話。 大切なのは、「出来ない」によって「好き」の権利が剥奪されないこと。ICT等の代替手段を用いて”好き”を保障すること。
多様性っていうと、なんか「良いこと」というイメージが付き纏いがちですが、決してそんなことはなくて、「人は多様である」という当たり前のことを、きちんと当たり前だと認識しよう‥ということだと思うんですよね。 多様性を「良いこと」と認識していると、それって持続しない気がします。
「学校でうまくいかない子=社会でうまくいかない子」という思い込みほど怖いものはない。少なくとも、今一緒に活動している仲間は学校ではうまくいかなかった子だけど、皆が世界を変えるキャパを持っている。 子ども達の人生に負のレッテルを貼ることだけは、大人として避けるべきだと思う。
「あいつは何度怒鳴っても反省しない!」と堂々と言う人を見ると、「怒鳴るという暴力で、かつ失敗しているのに、何度も同じ叱り方をする自身の行動をまずは反省すべきでは?」と思ってしまうのです。
「○○さん、きっと発達障害だと思うんです。」と相談された際は、「○○さんが困っている、もしくは苦しんでいるのなら、それは障害です。障害は解決したいのに出来ない”ハードル”。もし困っていないならそれは特性であって、障害ではないですね。」と前提を伝えると、その後の展開がスムーズにいく。
「出来ないことを出来る様にする」を目指すのが障害支援ではなくて、何かに挑戦したい人が障害のせいで挑戦できない、楽しみたい人が障害のせいで楽しめない、オシャレしたい人が障害のせいでオシャレできない・・こうした「障害のせいで‥」を解消することが、本当の意味での障害支援だと思うのです。
「あの子は発達障害だから・・」みたいに、障害って負のレッテルとして使われがちですが、障害の診断は、自分がなぜ辛いのかを理解するため、辛さを他人に説明するため、そして辛さを解消するためのもの。あくまで前に一歩を踏み出すために必要な手がかりであり、負のレッテルではないんですよね。
小学校時代、人と話すことが苦手だった僕に「無理して話さなくて良いよ。話したくなったらいつでもおいで。」と言ってくれた教育実習の先生。1ヶ月足らずでしたが、僕の中では永遠に恩師。たとえ教育実習であっても、子供達にとっては大切な先生であることを、実習生は意識してくれると嬉しいです。
学生「先生!私、寝坊しなくなったんですよ!」 僕「うそー!凄いやん!」 学生「先生が『遅刻したけど、ちゃんと来たやん!』って言ってくれて、寝坊したらどうしよう‥という不安がなくなったのが大きかったです!」 お叱りを受けそうな対応ですが、寝坊を解消したのでお許しください。
スカートで街歩きをしていると、「おっさんがスカート穿いて何してるの?」みたいな目で見られる時もあるけれど、「男性がスカートを穿いても良い」「男性のスカートも悪くない」と思ってくれる人が少しでも増えるなら、それはそれで良いと思っています。
講義中に「トイレに行っても良いですか?」と言われたので、入退室を自由にした・・という話でバズった際、残念ながら「小学生か?」みたいな反応があった。トイレに困ってない人からすると「対策しろ」「我慢しろ」程度の認識かもしれませんが、トイレの個人差は大きく、苦しむ人が多くいる訳です。
子育てって「○○すればうまくいく」的な情報が求められがちだし、ツイートも”断言する”書き方をすれば反応が増えるんだろうけど、それって実は危険だと思っている。例えば「褒めれば伸びる」は、褒めるとストレスがかかる子には逆効果。あくまで可能性に過ぎないし、子育ての共通解って実は少ない。
ケアレスミスをよくする人に必要なスキルは「ケアレスミスをしない」ではなく、ケアレスミスをする前提で「準備」をすること。ケアレスミスを防ぐため、誰かにチェックしてもらうことは当然で、加えて負担をかけることを前提に、普段から自分に出来る仕事で貢献しておく「準備」が必要なんですよね。
「この子は優秀だから大丈夫。」と簡単に決めつけない方が良いです。優秀な子の中には、水面下に「出来ないことを許せない」「出来ないことが怖い」といった気持ちが潜んでいる場合があります。そこに気づかず放置してしまうと、後になって致命傷になるケースがあるんですよね。。
「将来、この子が困らない様に・・」という理由で、子どもに我慢を強要するケースをよく見かけるのですが、過度な我慢はトラウマを生みだすだけなんですよね。 そもそも、世の中に困らない人なんて存在しないし、将来を考えるのなら、困ったときに我慢せずに訴える、または回避する力だと思う訳です。
障害等により困難さのある子に必要な力は、決して「我慢する力」ではなく「問題を解決する力」です。我慢せずに工夫する力、辛さを相手に訴える力、辛さを分かってくれる仲間を見つける力。そして、それを受け止められない大人がいたとしたら、その大人から極力離れる力です。
「制服のせいで不登校になる。」 嘘みたいな話ですが、本当の話です。皮膚に過敏性があると、襟の縫い目が首に触れただけで、かなりの「痛さ」を感じてしまいます。正直、勉強どころてはないですよね。そんな状況で「集中しなさい」と言われてしまうと、学校に行く気力がなくなってしまう訳です。
ユニセックス・スカートの制服を開発していると、残念ながらごく稀に「男性がスカートなんて気持ち悪い。」と言われます。さすがに傷つき落ち込んでいたある日、高校生から「制服が本当に辛いので期待してます!頑張ってください!」とメッセージを頂いた。思わず涙が出た。前を向いて頑張る。
「発達障害って才能があるんですよね?」と言われがちですが、「発達障害=才能」のレッテルで苦しむ人が沢山います。才能って、結局のところ人との比較を根底とした概念ですから。 才能よりも「自分らしく生きる」の方が大切だし、それを保障するために支援や配慮が必要だと思う訳です。
「思いやり」を「相手の立場に立ち、相手がどんな気持ちかを考えながら接すること。」と定義するならば、思いやりを相手に強要する時点で、既に思いやりではないんですよね。
「授業中にそわそわ動く子がいて・・真面目に授業を聞いてくれません。」と質問されたが、動くことで集中力が高まる子がいます。むしろ「真面目」な可能性すらある訳で。。 個人的には「動いても周りの子に迷惑にならない工夫や環境づくりって出来ないでしょうか?」という質問の方が嬉しい。
不注意性の強い子に対して、大人はつい「忘れ物をなくそう」としがちだけど、忘れ物をなくすハードルはかなり高い。それよりは「忘れやすいことを自覚する」「工夫すれば忘れないことを知る」の方が大切だし、何よりも、忘れなかったことを子供と一緒に喜び、工夫に対する意欲を生みだすのが大切。
不注意性が強い人に必要な力は、「忘れない様に努力をする」より先に、「忘れる特性を自覚すること」だったりする。特性を自覚してないと、「これくらいなら覚えられる、大丈夫。」と思いがちだし、結果的に大丈夫ではないんですよね。
「車椅子だと制服の着脱が大変で、毎朝地獄なんです・・」「制服は痛くて重くて、結局学校に行けなくなったんです・・」 制服を取り巻く数々の悲痛な声。それならば、最高の制服を作ってみよう。 ゼミ生達と何度も議論を重ね、機能性とカッコよさを兼ね備えた、最高のセーラー服を作ってみました。