「私、平熱が37.5度なんです。だから、健康だけど怖くてどこにも行けないんです。。」という声を聞いた。確かに、コロナ禍であらゆる場所に検温があるし、人から疑われるだけでストレスだろう。 障害って、環境次第で発生したり消滅したりすることを改めて実感。
スカートを穿いて講義をしたら、講義の感想に「堂々と穿いている先生を見て、本当に尊敬します。」「スカート、格好いいです。」とあった。大学内を歩いていても、同僚から「袴みたいでなかなか良いね。」と言われる。穿くまでは確かに不安だけど、穿いてみれば意外と誰も何も思わない。
「廊下は走らない!!」と叱って終わるのではなく、「走ると怪我するから、廊下は歩こうね。」と理由を説明する。さらに、叱った子が後日廊下を歩いていたら、「おっ、歩けてる!」と認めることが大切。 叱った後が本当の指導。叱られた悪い記憶を良い記憶に塗り替えることが大切なんですよね。
給食の完食を強制する、クラスで残食ゼロを目指すなど、残さずに食べることって美化されがちだけど、食べる量には個人差があるし、体調によっても異なる。これらの事情を無視して完食を強制する事は、食事に対するトラウマに繋がる可能性すらある訳です。
大学の講義は90分と長い。トイレが近い学生もいるし、花粉症で思いきり鼻を噛みたい学生もいるだろう。聴覚過敏の学生もいるかもしれない。だから、短い休憩時間や話し合いの時間を頻繁に設け、入退室自由にしている。 教師はつい教え方に着目しがちだけど、学びを阻害するストレスの低減って大切。
皮膚が弱いと、襟が首に触れただけで腫れてしまいます。画像は30秒ほどジャケットを着ただけ。これが学校や会社の制服だと、勉強や仕事どころてはないですよね。 だからこそ、感覚の過敏性に配慮した制服を開発していますし、その意味は大きいと考えています。
マイノリティの部分を隠して生きている人は多い。「なんで隠すの?」という発言を時折耳にするが、隠したくなる気持ちを否定してはいけないと思う。そもそもマイノリティの部分を隠さずに済む社会に成熟していないのが問題なんですよね。
「スカートと言えば女性の服なのだから、スカートを選ぶ男性はトランスジェンダーをカミングアウトするのと同じだ!」というお叱りを時折頂戴するのですが、果たして本当にそうでしょうか・・? 少なくとも、我々は普通に穿いている訳ですが・・。
「うちの子、どんな大人になって欲しい?」と妻に尋ねると、速攻で「人生を楽しめる子。」と返ってくる。逆もまた然り。正直、誰かに迷惑さえかけなければ、それでよい。 だって、成績が優秀なことより、良い大学に行くことより、人生を楽しむことの方が遥かに大切で、かつ難しいことですから・・。
発達障害は治りませんが、社会が「柔らかく」なれば軽減・解消できると思っています。 「柔らかく」とは、労働形態などの仕組みが柔軟になること、テクノロジーなどを使って個人にフィット出来ること、そして何より、一緒に楽しめる仕組みを社会全体で考えること。 社会が柔らかくなるといいな。
「ユニセックス・スカートの制服なんて作っても、どうせ誰も履かないのでは?」という質問を頂戴しますが、実はそれはそれで構わないと思っています。 だって、「選ばない」は、選択肢が準備されている状況ではじめて生まれる権利ですから。
バズりそうなので宣伝です。 TV出演の話は「ミライの制服プロジェクト」の関係です。障害の有無に関わらずストレスなく履けて、かつオシャレなユニセックス・スカートの制服を開発しております。 選択肢にオシャレな制服を加えるのが、私の夢です。 応援、どうぞ宜しくお願い致します✨
ユニセックス・スカートを開発している関係で、TV出演の話がチラホラ。念のため、息子に「スカート姿でテレビ出ても大丈夫?」と伝えた。 すると息子が・・ 「もちろん!テレビ出てよ!もし、何か言う人がいても、『そんな考えしか出来ないの?』って思うだけだから。」 と言われ、いま泣いてる。
スケジュールを忘れてしまう人に必要な力は、スケジュールを忘れないことではなく、忘れる前提で「保険」をかける力。 アラームをかけるなど工夫するのは当然として、「私、忘れる可能性が高いので、直前に連絡してください。」など、事前に誰かにお願いしておく。 自分を信じない。他人に依頼する。
運動場の片隅でポツンと座る男の子。 その隣で優しい笑顔で座り、その子の「ここにいたい」を大切にする先生。手を引っ張る訳でもなく、「一緒に行こう」と言う訳でもなく、その子の気持ちに寄り添っていた。 その男の子は30年後、気持ちに寄り添うことの大切さを伝える仕事をしています。
「ファッション車椅子」という単語で揶揄する話題が流れていますが、車椅子ユーザの方々にとってのオシャレを開発している人間としては、こうして揶揄されることが凄く悲しいです。 車椅子は誰にとっても必要なもの。そして、オシャレは全ての人にとっての選択肢。 このことを強く主張させて下さい。
40年間オシャレと無縁の生活をしてきたおっさんが、スカートとの出会いで世界が一気に明るくなった案件。
「スカートとズボンから制服を選べる。」という素敵な学校。 私のミッションは、ズボン・スカートに続く第3の制服の選択肢として、ユニセックス・スカート「bottom’all(ボトモール)」を加えること。 「あの制服、カッコいい!」と呼ばれるものを、近日公開します。 www3.nhk.or.jp/news/html/2021…
子供が「○○してごめんなさい。」と謝ってきても、「○○を繰り返さない作戦を教えて。」と返す。「次は頑張る。」と言ってきても「頑張らなくても済む方法を考えよう。」と返す。 再発防止を考えるプロセスこそが学びだし、改善点を褒めることも出来る。 謝罪で終わらせるのは、もったいない。
「廊下は走らない!!」と指導して終わるのではなく、「走ると怪我するから、廊下は歩こうね。」と指導することが大切だと思っている。指導する側って、不適切な行動に対してはすぐに注意するのに、適切な行動の提示を省略する傾向があるんですよね。。
「出来ないことを努力で出来る様にする」が教育と思われがちだけど、ただでさえストレスが高い状態で努力を強要すると、子供達は潰れます。 大切なのは余計なストレスを軽減することで「努力できる環境」を準備すること。そんな環境での努力は主体性を伴いやすく、成長に繋がりやすいですよね。
「障がい者のために社会が配慮すべき」と言うから反発が生まれるのであって、「障害の有無に関わらず、全ての人がメリットを感じられるデザイン」を障害支援の観点から開発すれば良い。 だって、障害のある方向けにデザインを開発することは、多くの人にとって恩恵のあることですから。
この度、私の研究室で「ミライの制服プロジェクト」を発足しました。肢体不自由の生徒さんが着脱しやすく、かつ誰もが着たくなる様なオシャレな制服を開発しようと思っています。あくまで選択肢を増やすことが目的で、可能性を提案するレベルですが、挑戦したいと思います。応援宜しくお願いします。
たとえ不注意性が強くても、「私、ミスする可能性が高いので、申し訳ないけど確認して頂けますか?」と言えれば、周りから信頼される可能性があります。逆に「任せといてください!」の後のミスは、周りにかなり迷惑がかかる訳で・・ 大切なのは、まずは自分が特性を受け入れ、周りに伝えることかと。
「発達障害って才能が・・」みたいなことってよく言われがちですが、才能と障害の有無って関係ないんですよね。自分の特性を社会で発揮できたらそれが才能な訳で、才能を発揮することを阻害する要因(障害)が社会側に存在するのなら、社会の側で除去しましょう・・というだけの話なんですよね。