「失敗は成長に必要だ!」と言われてきたので、教員になりたての頃は学生に失敗経験をさせようと思っていた。でも、失敗経験は学生の意欲を低下させるだけ。メリットがない。自分の意思で挑戦して失敗するのは成長につながるが、他人に押し付けられた失敗経験はトラウマを生み出すだけなんですよね。
LINEのカメラ機能はご存知だと思うのですが、文字認識機能ってご存知ですか? この機能を使うとプリントに書かれた文字が自動認識され、編集やコピペが出来ます。あと、スマホの読み上げ機能を使えば、視覚障害や学習障害の方がプリントに書かれた文字を読むことが出来ます。 全ての人にとって便利!
障害のある人を取材した番組って、「出来ないことが努力で出来る様になる」という部分が美談としてクローズアップされがちだけど、それって多くの人にとっては必要ない努力な訳だし、テクノロジーや制度を活用して「努力なしで出来る様になった!」の部分がクローズアップされて欲しいんですよね。
「困難さに配慮する必要性は分かるけれど、配慮しないと動けない子になりますよね?」と言われた際は、「配慮を受けて『出来た!』という成功体験を積めば、本人に意欲が生まれ、むしろ自ら動く様になります。発想を変えて、自ら動くための配慮をしてみませんか?」と伝えると、意外と納得頂ける件。 twitter.com/i/web/status/1…
読み書きに困難さがあっても、120%の力で頑張れば読み書きが出来てしまうケースがあります。こうしたケースは、子供達の「ストレス」を見逃さないことが大切。そういう意味で、「昨日できたから今日も頑張れば出来るよ!」は、実はかなりブラックな指示なんですよね。。
なお、我々の目的はあくまで障害のある方を含めたインクルーシブなビジネスモデルを世に広げる挑戦であり、ビジネスではありません。よって、障害を表に出す必要があります。 あと、販売する際は「障害のある方が製作した」という事実を表に出していません。(そもそも、表に出す必要がないので。)
「発達障害って才能が・・」みたいなことってよく言われがちですが、才能と障害の有無って関係ないんですよね。自分の特性を社会で発揮できたらそれが才能な訳で、才能を発揮することを阻害する要因(障害)が社会側に存在するのなら、社会の側で除去しましょう・・というだけの話なんですよね。
感覚過敏は頑張れば我慢できてしまうケースがあるから難しい。例えば、衣服が肌に触れるだけで激しい痛みを感じる場合も、耐えれるが故に我慢してしまう。でも、我慢するとストレスが蓄積され、追い込まれるのが現実。 故に、誰もが気軽にSOSを出せる環境が大切だし、そこがもっと評価されて欲しい。
「ボランティアって世のため人のため‥というイメージが強いけれど、活動を通して自分の知見が広がるし、自分に対する投資だよ。」と、学生には伝えている。誰かのために「してあげる」という気持ちが強すぎると相手に感謝を求めてしまい、逆にボランティア先で迷惑がかかる可能性すらあるんですよね。
子どもが不登校だと「学校でいじめられたの?」とレッテルを貼られがちですが、不登校の原因は心的不安、無気力、学習面の悩み、家庭の問題など様々。そして、本人ですら学校に行けない理由が分からないケースは多い。「不登校の理由は多様」という事実が広まるだけでも、救われる子は多いんですよね。
出来ないことの「克服」に対するサポートは手厚いのに、「楽しい」「面白い」的な意欲や主体性を生み出すサポートって、なかなか着目されないんですよね。。
障害等により困難さのある子に必要な力は、決して「我慢する力」ではなく「問題を解決する力」です。我慢せずに工夫する力、辛さを相手に訴える力、辛さを分かってくれる仲間を見つける力。そして、それを受け止められない大人がいたとしたら、その大人から極力離れる力です。
「得意なことから始めましょう。」と言うと「得意なことだけをやりましょう。」と勘違いされがち。真意は「得意なことと関連づけて色々な事に挑戦してみましょう」なんですよね。挑戦するためには得意なことが必要なので、「得意なことをまずは自覚しましょう」が正確なのかと。
学校などで行われる障害疑似体験って、障害について理解するという点では良いけれど、それだけだと辛さを強調するだけで終わる危険性がある。 個人の見解だけど、辛さを解消する方法について考え、一緒に楽しめる方法を主体的に模索することまで含めて、ようやく障害理解に繋がると思う次第。
「好き嫌いをなくしましょう」の意味は、「嫌いなものを無理矢理食べましょう」ではなくて、「好きなもの、食べられるものを増やしましょう。」なのかと。茄子は煮浸しは無理でも揚げ茄子なら大丈夫・・など、選択肢を増やすイメージ。楽しく食べるって、生きる上でとても大切なことですよね。
障害のある子供達が学ぶための配慮や生活するための配慮については周りの大人が真剣に考えるけれど、オシャレしたりゲームしたり、楽しむための配慮って後回しにされがち。でも、「楽しむ」って生きる上で必要な要素。楽しむことができない辛さと配慮の必要性って、社会の認識がもっと広がると嬉しい。
市長という立場の方が「障害の社会モデル」を認識して市政に携わっているのは、実は画期的なことだと思う。障害は人ではなく社会に存在するものであり、障害を解消することは、全ての市民にとってメリットがある。この視点で市政をするとどう変化するか、専門家の立場と明石市民の立場から注視したい。 twitter.com/izumi_akashi/s…
障害支援や合理的配慮って「特別扱い」と非難されることがあるのですが、そもそも全ての人が特別扱いされるオーダーメイドな社会を目指せば、全ての人がパフォーマンスを上げることが出来るんですよね。(しかも、テクノロジーの発展により、実現すること自体は可能。)
「私、平熱が37.5度なんです。だから、健康だけど怖くてどこにも行けないんです。。」という声を聞いた。確かに、コロナ禍であらゆる場所に検温があるし、人から疑われるだけでストレスだろう。 障害って、環境次第で発生したり消滅したりすることを改めて実感。
「学校でうまく適応できない=社会に適応できない」ではないし、学校でうまくいかなくても社会で活躍するケースなんて山程ある。少なくとも、子ども達の人生に大人が負のレッテルを貼ることだけは避けたい。自戒を込めて。
実は、この巻きスカート「bottom’all」も、障害のある方向けに開発しました。マジックテープで着脱できるので、身体に麻痺があっても着脱が容易です。でも、バズった理由は「オシャレ」「穿きたい」「男性のスカート、良い」だったんです。そこに「障害」は関係ない。 こういうデザインが、私の理想。
「障害の有無や性別に関わらず、誰もが心躍るファッションを世界で流行させる」を目指したパリコレ挑戦。障害があっても当たり前にファッションを楽しめる時代を創るべく、数々の苦難を乗り越え、あと一歩で手が届くところまできました。 私達の夢がついに叶う・・そう信じてました。。 ところが・・
合理的配慮って「障害者の要求を一方的に受け入れる」とネガティブに捉えられる事があるけれど、大切なのは過度に構えず、「そうか・・○○が辛いんだね。」と気持ちを聞き、「ちょっとした工夫で解決できないかな・・?」と”持続可能な”解決策を模索することなんですよね。
あるボタンをクリックするだけで、全盲の方がWordやPowerPointなどの資料を読める様になります。それは・・ 【アクセシビリティ・チェック】 実は、障害のある方が「音声読み上げ機能」を使って資料を読む際に、読めない部分をチェックしてくれる機能なんです。 この機能、広がると嬉しいです。
子ども達に必要なのは「このままだと大人になって困る」というネガティブな見通しではなく、「こうすると大人になっても困らない」というポジティブな見通し。ネガティブな見通しは子ども達の未来に負のレッテルを貼ってしまう可能性があるので、ポジティブな見通しを示すことが大切だと思う訳です。