「講義中、スマホ使用OKです。スマホの回線でインスタやTikTokを見ていても叱りません。」と宣言すると、個別作業の時間にほとんどの学生がスマホを触り始めた。やはり現実は甘くないな‥なんて思っていたら、実はみんなスマホで調べながら必死で作業をしてくれていた。そんな学生には感謝でしかない。
学生には「就活は良い企業に就職するための活動ではなく、自分の特性や性格とのギャップが少ない仕事を探す活動。正直、働いてみないと分からないから、ギャップが大きければすぐに辞めれば良い。解決困難なギャップを埋めようと努力すると心が病むからね。」と伝えている。教え子が病むのは辛いから。
「Aさん、問題行動だらけで褒める部分がなくて‥。褒めないといけないのですが‥」と相談されたので、「無理に誉めなくても良いですよ。他愛のない話の中でAさんの話をひたすら聞いて、優しく頷いてみてください。」と伝えたところ、翌週に問題行動が減ったと報告。きっかけは些細なことなんですよね。
障害や困難さで学生から配慮を求められた際、その学生にだけ特別な配慮をするのではなく、なるべく全体に対して適用可能なルールにしている。板書の写真撮影の許可や、トイレの入退室自由もその一環。特別扱いって、本人にとっては負担に感じがち。特別扱いせずに済む工夫を模索することって大切かと。
「読字障害は明朝体フォントが苦手(読みづらい)のに、なんでマンガは読めるのですか?」と質問されたので、「人にもよるけれど、漫画はひらがなが明朝体で、漢字はゴシック体だからね。」と言うと、驚かれる件。
昔、校庭の隅でポツンと一人でいた時に信頼できたのは、手を引っ張る人ではなく、優しい笑顔で隣に座ってくれた人。「一緒に行こう」と言う人ではなく、「ここにいたい」を大切にしてくれる人。そして、自分本位で関わる人ではなく、僕の気持ちに寄り添ってくれる人でした。
「雪が降ったら会社は休む」を有言実行していた父。昔は適当な人間だと思っていたけれど、「怪我する方が職場にも家族にも迷惑がかかる。休むのは権利だから。」の一言は、今になって振り返るとその通りだと思う。「休む」は自分のためでもあるけれど、他人のためでもあるよなぁ・・と。
学習障害は読み書きの困難さに着目されがちですが、読み書きの負担により「思考する余裕がない」ことが実はかなりの問題です。学びは思考によって生まれます。考えて試行錯誤することで知識は形成されます。読み書きに負担がかかると、思考する機会が奪われ、学びの機会を失う訳です。
学校に休まず行くことって美化されがちだけど、身体や心が悲鳴を挙げていたら休まないといけない。子ども達に休まない事を求めるのではなく、子どもが自分の意思で自分のペースで学校に来れたことを大切にしたいと思う訳です。
「講義中、スマートフォンを使用してOKです。調べ物やノートテイクなど、自由に使ってください。」と伝えている。すると、ゲームやSNSをする学生は予想以上に少数で、それどころか講義の調べ物に没頭します。学びたい学生が快適に学べる環境を保障することって、大切だと思うんですよね。
社会人に有休制度があるように、学校にも気軽に休める仕組みがあれば良いのに・・と思う。社会人でなくてもストレスが溜まるのは一緒だし、休む権利はあると思うんですよね。
「講義中、別に寝てもいいし、廊下に出てもいいよ。」と学生には伝えている。睡魔は生理現象だし、睡魔と戦う無駄な時間を過ごすくらいなら、少し寝たり廊下を歩いたりする方が効率的だと思うんですよね。第一、睡魔を生み出したのは自分ですから、学生を叱る理由がないのです。
たとえ不注意性が強くても、「私、ミスする可能性が高いので、申し訳ないけど確認して頂けますか?」と言えれば、周りから信頼される可能性があります。逆に「任せといてください!」の後のミスは、周りにかなり迷惑がかかる訳で・・ 大切なのは、まずは自分が特性を受け入れ、周りに伝えることかと。
「ボランティアは世のため人のために参加するものではなく、活動を通して自分の知見を広げる、いわば未来の自分に対する投資だよ。」と、学生には伝えている。 「誰かのため」という気持ちが強すぎると、逆に迷惑がかかる可能性すらあるんですよね。
勝負に負けるとすぐにキレてしまう知的障害のあるAさん。毎回癇癪を起こすけれど、その度に彼と【作戦会議】を開いた。ある日、「コソッと帽子を叩きつけたらラクになるかも」と呟いたので、イライラしたら隠れて帽子を叩きつける実践を繰り返した。すると、徐々に怒りをコントロールできる様に‥続く
意図のない「怒鳴る指導」は、単に怒りに任せて怒鳴っておけば相手が萎縮して言う事を聞くので、素人の指導者がやってしまいがち。(誤った)成功経験が積み重なるため、「指導がうまい」と錯覚する。早い段階で気づけばまだ良いが、錯覚したまま怒鳴る指導を続けると大変な事になるんですよね。。
不登校の原因はいじめなど対人関係だけでなく、理由もなく襲われる不安、気分の落ち込み、神経症など要因は様々。学校に行けない理由が本人にも分からない場合もあり、学校に行こうと頑張ってしまうが故に余計に苦しむ場合がある。不登校=学校に行く努力をしない‥という訳では決してないんですよね。
九九の覚え方って「いんいちがいち、いんにがに・・」のイメージが強いと思うのですが、視覚的に覚えた方が覚えやすい子、書いた方が覚えやすい子など、実は多様です。覚える手法の一つとしては良いのですが、子供達を算数嫌いにさせないためにも、合わない子には他の方法を模索することも大切かと。
何か私がうまく例え話をしている様な印象があるので、念のために補足しますが、これは「障害の社会モデル」と言われるもので、障壁を取り除くのは社会の責務であり、社会全体の問題として捉える考え方です。当然ながら講義ではここまで含めて話しています。
大学の講義は90分と長い。トイレが近い学生もいるし、花粉症で思いきり鼻を噛みたい学生もいるだろう。聴覚過敏の学生もいるかもしれない。だから、短い休憩時間や話し合いの時間を頻繁に設け、入退室自由にしている。 教師はつい教え方に着目しがちだけど、学びを阻害するストレスの低減って大切。
麻痺で袖口に腕を通しにくいなら、袖口を広げれば良い。 袖口の広さを隠せないなら、袖口の広さをデザインとして魅せれば良い。 もし袖口が広い服が流行れば、腕を通しにくくても流行の服が着れる。 そんな逆転の発想って、どこか楽しくないですか?
「制服のせいで不登校になる。」 嘘みたいな話ですが、本当の話です。皮膚に過敏性があると、襟の縫い目が首に触れただけで、かなりの「痛さ」を感じてしまいます。正直、勉強どころてはないですよね。そんな状況で「集中しなさい」と言われてしまうと、学校に行く気力がなくなってしまう訳です。
フランスは8月になった瞬間にバケーションに入る企業が多い。本当に仕事関係の連絡は一切できなくなる。つい「マジか・・」と思ってしまうが、この発想が日本人的なのだと思う。休みがあるから仕事に対するモチベーションが保てるし、「休み」の必要性について、もっと真剣に考えないといけない。
「車椅子ユーザが段差で困っていたとすると、障害は段差であって車椅子ユーザではない。障害は人にあるのではなく社会に存在する。」という話をすると、「金は無限にあるとか思ってそうw」と反論されるが、「工夫すれば社会にある障害をなくせる」と社会が考えれば、状況って変わると思うんですよね。
「講演依頼したいのですが、コロナなので動画を作成して貰えませんか?交通費を減額した金額でお願いします。」と言われ、泣く泣くお断りした。話す様子を動画で撮るだけ‥と思われがちですが、対面と動画では伝わり方が全く異なるので、動画編集に普段の5倍以上の時間がかかるのです。すみません‥。