私は親と和解できたタイプだけど、虐待や機能不全家庭で育った人全てが親と和解すべきとは思わない。 物理的に距離をおいた方がいい人もいるだろうし、その選択をした人を外野から「冷たい」とか言う権利もない。 あと和解するにも時間が必要な人もいるから、他人のべき論に縛られなくていいと思うよ🐧
新卒ブラック企業時代 友人「今月ボーナスの月だね!」 私「え、ボーナスって1人でもノルマ達成できないと全員貰えないものでは…?」 とか 友人「いつも15分前くらいに出社するんだけどさぁ」 私「え、新卒は1時間前に来て掃除するものでは…?」 と異常性を悟ったので、他の環境を知るって大事。
「こいつは敵だ!」と思うと、その人が正しく見えなくなってしまう。 ある時は嫌な事されたかもしれないけれど、またある時には助けてくれるかもしれない。 自分にとっては嫌な奴でも、誰かにとってはかけがえのない存在かもしれない。 “今自分に見えている以外”を考えられる時、心が豊かになっていく
コロナの影響で「体調不良でも出勤」がどれほどマズいのか浸透してほしいな… 必ずしも本人だけの問題じゃなくて、「出勤しないと経済的に苦しい」とか、「休んだら人手が足りない」とか原因は様々だけども、これを機に全職場環境や「無理して働くのが美徳」の価値観も変わったらいいなぁ…
私が初めてメイクをしたのは、尊敬する人の為だった。 それまでずっとお洒落なんて興味なくて、いつも親戚のお古か、黒とかグレーの目立たない服ばかり着てた。 でも大切な人に出会って、その人の隣を歩くことを考えたら、恥をかかせちゃいけないと思った。 誰かを大切にする心は自分を綺麗にする。
自分にとっては心底傷ついた言葉でも、言った相手は大体忘れちゃってるもんなんだよね。 こちとら何日、何年とグルグルその言葉を考え続けているのにさ。 失礼しちゃうよね。 だからもう、失礼のお返しをしちゃおう。 そんな言葉あっさり忘れてやって、もう関係ないやってくらい今を大事に生きられたら
たとえば接客業の仕事を続けていると、友だちといる時にも「こちらでよろしいですか?」とかでちゃうことがあるように、普段から見る聞く使う言葉は自分の体質になる。良い言葉も悪い言葉も無意識下に脳に染み込み、いずれ口に出る。ちなみに昔レジバイトしてた先輩は寝ながら隣の人の体でレジ打ってた
結局一番しんどい人間関係って嫌な時にも「大丈夫だよ〜!」とか「全然〜!」とか言わなくちゃいけない関係で、一番居心地がいいのは1%でも嫌な時はちゃんと「それは嫌」って気兼ねなく言える関係だな、と思った。自分も言える人でありたいし、言ってもらえる人になりたいよね
他人に頼るのが苦手な人って、そもそも苦手というより「頼る」という選択さえ思い浮かばない人が多いんだよね。一人じゃ解決できない問題にぶつかった時も①諦める②永遠と苦しむ③できない自分を責める、みたいな選択しか出てこなくてさ。まずいつも見える所に④人に頼る、とか書いておくことが第一歩
自分を嫌う人のために自分を変える必要はない。「嫌われないようにしなきゃ」なんて会う人会う人の要望全てに応えて自分を変えていたら、本当の自分がどこにもいなくなってしまうから。変わりたいなら誰かのための自分じゃなくて、もっと自分らしく素敵になるために変わればいいんだよ。
悪口を言うメリット ・一時的にスッキリする 悪口を言うデメリット ・周りから「悪口を言っている人」という目で見られる ・反撃があるとスッキリした以上のストレスがかかる ・相手が想像以上の苦痛を受けて命に手をかけたら責任取れない デメリットが大きすぎて あえて言うものでもないなぁとなる
べつに嫌いな人っていてもいいと思うんだけど、個人的には「嫌い」と考えると気分が悪いから「自分には合わない人」と思うことにしてる。相手が悪いとか自分が正しいとかじゃなくて、ただ自分には合わないだけ。相手を否定する必要もないのですごく楽。おすすめ。
世の中には2種類の人がいる。 自分には理解できない状態の人を「わからないけどそんな人もいるんだな」と認められる人と、「自分がわからないんだからコイツは嘘をついている」と否定しようとする人。 全員が前者なほど甘い世の中でもないし、全員が後者なほど残酷な世界でもないんだよね。
これは自分がそうだったのだけど、Twitterで仲良かったのに最近絡みないなって人は良い意味で気にしなくていいと思う 嫌われたとか相手が冷たくなったって事は案外稀で、単純に忙しかったりTwitterの気分じゃないだけの事がほとんど 離れるのも自由だし、ふらっと戻ってきたら「おかえり」ってできたら
生まれたての雛鳥は最初に見たものを親だと思い込むように 子供の頃に聞いた話は、たとえ嘘や非正論でもその人の基準として刷り込まれる 「お前はダメな子だ」 「こんなこともできないの」 否定的な言葉は否定的な価値観を育てる けれども親がしてくれなかった事は、自分が自分にする事で克服できる
働きたいのに働けない、体と心が満足に動かない、自分はなまけ者なんだ、と思っている人へ。 まず、できるのにやらないと、できないからやれないは別なんだと区別しよう。 そして少なくとも、君の心臓は生まれてこの方一度も休んだことがないんだから、君は働き者だよ。 大事にしてあげてね。
料理作ったフォロワー 自炊できるなんて天才かな? 食べてるだけでも偉いのに ペットの写真あげるフォロワー お宅の子、可愛すぎて大丈夫? その子共々一層幸せになってくれ 今日も生きてるフォロワー 今日も生きててくれてありがとう つらい時、力になれなくて不甲斐ない 繋がってくれてありがとう
学費と生活費でお金に余裕がなかった学生時代、食費を削って3食パンとかそうめんにしていたら近所のお姉さんに「節約するにも食費だけは削っちゃダメ。栄養不足で体調崩したら結局医療費の方が高くつくんだから」と叱られたのを覚えてる。命、健康に関わることは削っちゃダメ。自戒。
休むことに罪悪感を持っていると、 休む→癒しポイント+100 罪悪感→癒しポイント-100 くらいでプラマイゼロになってしまうので、休む時は「今から存分に休むぞ!!」と割り切って休むことが大事。 ギリギリメンタルで働いたり、限界を超えて倒れるよりも効率的だよ。 休むことも大切なお仕事。
べつに好きなものを100%好きにならなくたっていいし、嫌いなものを100%嫌いと決めつけなくたっていいのにな。 好きな人にも相容れない面があるのは当然だし、好きだからって盲信的に受け入れるのは怖い。 嫌いな人でも良い面あるし、何してもケチつけるより良いとこは認めたり学んだりしたらいい。
人に頼れる人は怠け者でも甘えたでもなく、誰かを助けてあげられる人。「自分もしてもらったから」と人にも返すことができる人。 誰にも頼れず一人で解決しようとする人は我慢強い反面、人にも「自立」や「自己責任」を押しつけてしまうことがある。 頼り・頼られで、プラスの循環ができたらいいよね。
溺れている人に溺れている人を救うことはできない。 自分がグラグラな人にグラグラな誰かを支えることはできない。 溺れている人を助けたいなら、まずは自分が救われること。 グラグラな誰かを支えたいなら、先に自分がしっかり立つこと。 だから何もない自分も、大事な人のための自分も大切なんだ。
人は追い詰められると視野が狭くなるもの 「この道しかない」と思う時こそ、一歩止まって深呼吸しよう 「自分にはこの会社だけ」 「この人に愛されなかったら終わり」 「これができなかったら全てダメ」 多分、そんなことない 一つしか見えなくなる時こそ「他の選択もあるかも」と言ってあげられたら
クレーマーって損だよなぁと思う。 まともな指摘ならともかく、理不尽なクレームをわざわざ探して難癖つけて相手が望み通りの反応でなければよりキレて…って自分が疲れない? むしろサンカー(Thanker)になって「いつもありがとう」とか「おいしかったよ」って伝えてお互い笑顔になる方が幸せだよね。
自分を大事にできると、他の人も大事にできる。自分を責めてばかりいると、どこかで人を妬んだり憎んだり、自分にかけるキツい言葉を他の人にも放ってしまうもの。自分においしい紅茶の一杯を淹れてあげられる人は、他の人にも淹れてあげられるんだ。