誰かに愛されようとする前に、まずは自分が自分を愛すること。認めてあげること。 何かができるから自分を認めるんじゃなくて、何も無くて何もできなくて、足りなくて矛盾だらけでも、弱さも全部ひっくるめて「これも今の自分なんだな」って認めてあげることが大事な一歩なんじゃないかな。
誰かを救いたいなら、傷つく覚悟が必要だ。 人助けをするっていうと、ありがたがられて沢山感謝されると思うでしょ。 違う。 本当の意味で誰かを助けるっていうのは、それだけ命懸けだ。 救おうとしても手を振り払われることなんてざらにある。 傷つけられても、最後まで愛せるかどうかだ。
目に見えない疾患を持つ方が優先席座ったらおばさんに睨まれたとか、道で困ってる人がいたのに皆写真撮るだけだったとか嫌な話もあるけど、私が電車で倒れた時は隣の女性がすぐ支えて駅室まで連れてってくれたし、自転車で転んだ時はおじさんがめっちゃ心配してくれたりでいい人も多いし転び癖直したい
自分のことなのに泣けないことがある。 自分のことなのに自信が持てないことがある。 でもそんな時、まるで自分のことのように泣いたり喜んだりしてくれる人がいると救われる。 「ええー!!それ酷いよ!!ありえない!!」 「それ本当?!すごいじゃん!!うわぁ嬉しい!!」 って人ガチで天使。
友だちの結婚まで考えていた彼氏が別れた途端に態度激変して「お前と付き合っていた時間全部無駄だった」とか暴言吐かれまくったと聞いて、それは結婚したら態度変わるタイプの人間だったのでは…?と思ってしまった。親しい人の“愛する人以外”に接する態度って大事だと思う。店員には態度悪い恋人とか
頑張りすぎちゃってる時って、自分では気づけない事が多いんだよね。自分が今疲れているかとか、休憩が必要かって事に意識が向かなくて「もっとやらなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」って考えで一杯になって倒れるまで走ってしまう。「もっと」「ちゃんと」と思う時には、限界を超えていないか振り返れたら
父、この間お店で肉食べてたら電撃走ったような顔して店長を呼び止め「これ!!すごくおいしいよ!!あなたすごい!!素晴らしい!!」って絶賛し出し、始終「いや〜ウマい…絶対友だち連れてくる…ウマい…」って感動ダダ漏れし続け、店長もずっとほくほく顔してた。感謝する人は自分も周りもハッピーにする。
感染症の影響で経済も揺らいでいる中、 “コロナを理由に突然「家賃を値上げします」と連絡がきた” というツイートを見た直後に “「不安な時期だろうから」と大家さんが来月家賃を2万円引きにしてくれた😭” と別のツイートが流れてきて、やっぱり緊急時の対応で人の中身は出るよなぁと…
誰かを大切に思う心は自分の活力になるけれど、相手に押しつけるものじゃあない。「この人がいるからがんばろう」と自分を奮い立たせるためには使っても、「あなたのためにやってあげたのに」と押しつけると歪んでしまうんだ。自分の心は相手に認めさせるんじゃなくて、自分自身が認めて大切にできたら
Twitterのリプって、「ツイートした本人に話しかけている人」と「人ではなくその話題にコメント付けてるだけの人」がいて、後者の存在を認識してないと「え?誰この人?初対面なのにタメ口?」とか色々気にしちゃう人がいるんだなぁと。 リプは必ずしも自分に話しかけられてるわけじゃないのよね。
頼り方が分からない時はとりあえず悩みを話してみること。「自分でもどうしたらいいか分からないんですけど」って正直に言うこと。 話す人は選んだ方がいいけど、相手によっては「じゃあこうしてみたら?」って自分では思いもよらなかった道を示してくれたりもする。
何もなくても自信をもって生きよう。お金がなくても、才能がなくても、今日まで生きてきたこの命がある。辛い事がなかった人はいないだろう、諦めたくなった事もあるだろう、それでも続けて生きてきたなら十分立派な事だ。生きている事が一番の功績で希望で最高の自負心だから、胸を張って生きられたら
「役に立たなきゃ価値がない」 そう思ってがんばろうとすると苦しくなる。何ができる、できないは関係ない。何もできなくたって自分には価値がある。 「夢のためにこうしたい」 「この人のためにやりたい」 せっかくやるなら、「やらなきゃダメだから」より「やりたいから」と思えたらいいよね。
自分が常識だと思ってる人と話していると、つかれてしまう。 そういう人は自分と同調することを押し付けるか、自分と違うものに「非常識」のレッテルを貼って排斥するから、息苦しくて。 常識なんてものは曖昧で、生まれ育った時代や環境、人によって様々なんだってことを忘れない人でありたいね。
自分に余裕がない時は“ちょっと嫌なこと”も“ものすごく嫌なこと”に感じてしまうのが人間なので、余裕がない時に嫌いな人は作らない方がいい。実際その人が嫌なようでも、ただ自分に余裕がないだけのことも意外とある。ギリギリの時こそ人を攻撃することより、自分を満たすことを考えられたら
心配するな。 心配事は、心配してもよくならないから。 できることがあるなら、やる。 できることがないなら、あとはゆだねる。 それだけだ、それだけでいいんだ。 これまでたくさんあたま使ってがんばったね、よしよし。
職場や家庭、周りの環境に「お前はダメなやつだ」「使えない」なんて嫌な言葉をかけてくる人がいたって、自分が自分をどう思うかは自由なんだ。「そうか、自分はダメなんだぁ」と流されてやる必要もなくて、「へーそうなん」って流してやる自由がある。自分の価値を守ってあげられるのは自分自身なんだ
Twitterをやるまで知らなかった病気の名前が沢山ある。 何となく見かけたツイートのプロフに飛んでみて「ん?なんだこの病気?」と軽い気持ちで検索かけて、自分が考えた事もなかった重い闘病生活をしている方々を知って衝撃を受けた事が何度もある。 全ては知れないから、大事なのは知る努力だと思う
「あいつは上手くいっててズルい」 を 「あの人はなんで上手くいってるのかな?」 に転換する事 「自分はいつもダメだ」 を 「どうしたら良くなるのかな?」 に変える事 時には感情に振り回されず 淡々と原因と結果を考えてみる事もためになる ズルいあいつに学んだ事が自分の答になる事もあるよね
身近な頑張っている人を見て「あの人はすごいなぁ…それに比べて自分は…」なんて思っても、相手は貴方と比べる為に頑張っているんじゃないんだ。自分と相手じゃ頑張る内容も違うし。水泳選手が陸上選手を見て「自分は走れなくてダメだなぁ」と落ち込むくらい仕方ない事。自分の事を頑張れたらいいよね
「家族のため」 「社会のため」 「愛する人のため」 と言う人ほど、まず自分が生きなきゃならない。 時には犠牲にならなきゃいけないことがあったとしても、いつも身を削れば限界がくる。 自分を使い果たせば愛するものを守れるのもそこまでだ。 自分を守る分、大切なものも守ることができるんだよ。
好かれようとしてがんばることは、本当の自分とは違う自分を演じること。上手く演じて評価される時はいいけれど、それじゃあいつか疲れてしまう。自分じゃない自分が評価される度に虚しくなってしまう。好かれようとしなくたっていいんだ、自分の価値は誰かの評価で決まるものではないんだから。
知らない事は悪い事じゃない。分からない事に出会ったら、知ろうとすればそれでいいんだ。知らない事を認めず、知ろうともしない事が問題なんだ。知りもしないのに決めつけようとする事が問題なんだ。いくつになっても学び続ける人には成長に上限がない。知らない事をバカにする人は放っておけばいいよ
当たり前って案外あっけないものなんだ。当たり前に過ごしていた日常が事故や予期せぬ出来事で崩れてしまったり、あの子は大丈夫と思っていた人が明日には大丈夫じゃなくなったり。いつもなんとなく享受していた当たり前が実はとっても価値あるもので。価値を忘れて手放さないように、大切にしたいよね
人が人の人生を左右することはできない 自分を救ってくれる恩人はいる 人生を破滅させる悪人もいる でも、その恩人の手を取るか払いのけるかは自分次第で、 悪人にやられるか戦うか距離を置くか、それとも和解するかは無限に自由だ 何を選ぶか、選択肢を学ぶ知恵と選ぶ意思は奪われないようにね