最近特に思うけど、全人類に必要な能力は「助けて」を言う能力。ヘルプの声に「そんなこともできないの」とか「恥ずかしい」とか、何も言うな考えるな。勇気を持って助けを求める声を押し潰すな。芽が出る前から摘もうとするな。できない時には助けを求めて、助けてもらった分誰かを助けてやればいいよ
人に頼れる人は怠け者でも甘えたでもなく、誰かを助けてあげられる人。「自分もしてもらったから」と人にも返すことができる人。 誰にも頼れず一人で解決しようとする人は我慢強い反面、人にも「自立」や「自己責任」を押しつけてしまうことがある。 頼り・頼られで、プラスの循環ができたらいいよね。
承認欲求を満たすために人助けをする人は、相手が願った反応を返さないと腹を立てる。 「してやったのになんだ」「やって損した」あるいは「こんな奴にもしてあげた自分」に酔いしれる。 でも本気で誰かを救おうとする人は、泥を被ってでも相手を守る。 誰に理解されなくともその人の幸せを願うんだ。
ある時めちゃくちゃ体調が悪くて生きるのがしんどいレベルだったのに、誰も心配してくれなくて絶望した。 え、うそ、こんなつらいのに誰も何も言ってくれないの?と思ってたら気づいた事。 「あ、そもそも私が誰にも“つらい”って言ってないんだ」 人は言わなきゃわからないのにね。 伝える事も大切。
壁があるということは、その先があるということ。 力を使ってぶち壊してもいいし、知恵を出して乗り越えてもいい。 気長にゆっくり遠回りする人もいれば、一休みしてから穴を掘ってくぐり抜ける人もいる。 前に進む方法に正解なんてない。 「こうあるべき」を捨てて、人生自分らしくいけばいいよね。
新卒ブラック企業時代 友人「今月ボーナスの月だね!」 私「え、ボーナスって1人でもノルマ達成できないと全員貰えないものでは…?」 とか 友人「いつも15分前くらいに出社するんだけどさぁ」 私「え、新卒は1時間前に来て掃除するものでは…?」 と異常性を悟ったので、他の環境を知るって大事。
ぶっちゃけた話、「痛い」とか「辛い」とかメンヘラツイートしてどうすんのよと思った時期もあった。でもやっぱり一番良くないのはため込んで爆発しちゃうことだよなって。耐えることが当たり前になると人にもそれを求めちゃうし。全部を口に出す必要はないように、全部を隠し通すこともないんだね。
「家族のため」 「社会のため」 「愛する人のため」 と言う人ほど、まず自分が生きなきゃならない。 時には犠牲にならなきゃいけないことがあったとしても、いつも身を削れば限界がくる。 自分を使い果たせば愛するものを守れるのもそこまでだ。 自分を守る分、大切なものも守ることができるんだよ。
「こうしたらいいよ」「こうするのもアリじゃない?」を「何がなんでもこうしろ」と捉える人がいるし、「これってどうなのかなぁ」を「こういうやつ大嫌い絶対許さない」と解釈する人がいるけど、多分本人が普段0か100かの思考なんだよね。極端な思考は人にも自分にも牙をむくから認識の自己点検大事。
溺れている人に溺れている人を救うことはできない。 自分がグラグラな人にグラグラな誰かを支えることはできない。 溺れている人を助けたいなら、まずは自分が救われること。 グラグラな誰かを支えたいなら、先に自分がしっかり立つこと。 だから何もない自分も、大事な人のための自分も大切なんだ。
「もっとつらい人がいるから」っていうのはマジモンの呪いの言葉で、そもそもつらさに順位はつけられないし、苦しい時は人のことより自分にちゃんと向き合った方がいい。今目の前に問題があるのに「人のこと」を持ち出すのはお門違いだし、自分のつらさこそ自分が向き合って解消してあげた方がいいよ。
ケチをつける人は責任を取ってくれない 真夏で水分補給しつつ働く人に「職務中に水飲むな!」と叫んでも、いざ水分不足で倒れれば「自己管理が足りない」と叱責する あれダメこれダメと言いつつ別の道に行けばまた否定する人は気にしないこと 夏には水を、冬にはコンポタ缶を持って働く景色もいいよね
「自分は弱い」 「自分は足りない」 そう思っても、自分にしかできないことがある。 大丈夫、どうせ100%完璧なんてほとんどの人ができないんだ。 弱いなら弱いなり、足りないなら足りないなりにやればいい。 失敗してもいい、今できる精一杯をすることは必ず次に繋がるから。
平均睡眠4時間の友達の話を聞いて「え…もしかして私(6時間睡眠)は怠慢なのかな…」と思ったり、謎解をポンポン答える友達を見て「私って頭が悪いのかも…」と思ってた時は病んでた時で、「いや!!私が悪いんじゃなくて私の友達がすごいんだな!!」と肯定的に捉えるようになってから楽になった話。
「自分は今まで生きてきて、何をしてきたんだろう」 「特別大きな事をしたわけでもないし」 「失敗もできない事も多かった」 それでもここまで生きてきた事、それ自体が何より大きな事だ 折れかけても完全には折れないで、死にかけても寝て食べて息をして、今ここに生きている事がもの凄い事なんだよ
“友達価格”っていうのは「我が友の最高な作品や働きっぷりには友達価格を上乗せしてでも支払いたい…!」と心から認めてくれる相手に対して「そこまで思ってくれるなら値引きでも無料でもやらせてほしい」と成立するものであって、「便利な生産工場にまけても〜らお♪」と考える輩は縁切られるのじゃよ
できたと思ったらできなくなる。 乗り越えたと思ったらまた壁にぶつかる。 人生ってそんなもん。 上がって下がっての繰り返しで、どんなに調子が良くても上がり続ける事はできない。 だから落ち込む時もあっていいんだ。 時にはしっかり落ち込んで、前よりちょっと早く立ち直れるようになれば成長だ。
やろうとしたことが崩れても問題じゃない、自分の心が崩れることが問題だ。 やりたかったこと、期待していたこと、待ち望んだことが崩れても、自分の心が崩れなければまた立て直せる。 でもどんなにちっぽけな問題だとしても、自分の心が崩れたら終わりなんだ。 目の前の壁より自分の心が大事だよ。
重い話になるけど1歳で実父、20歳で実母を亡くした身としては、生きてるって本当に奇跡なんだ。早死するのが悪いわけじゃないけど、今ここに生きてるってそれだけで物凄い事。昨日まで笑ってた人が次の日目覚めなかったり、事件事故に遭う事もある。自分や大切な人が生きてるのは綺麗事じゃなく奇跡。
ボクシングは暴力を推奨するものじゃなくプロ選手によるスポーツであるように、お笑いはプロのいじり屋といじられ屋による作品なので、素人が「芸人もやってるし」という理由で人様の顔や嗜好等を笑いにするのは危険なんだよね。いじられる側も心から笑えてこその笑いで、一方通行のネタは寒いだけだよ
小学生の時目つきの悪い子がいて、別の子に「○○君ってよく目を細めてるよね〜笑」と言ったら「あいつ視力が悪いからそうしてるんだよ」と返されて物凄く恥ずかしくなった。知らないって怖い。知らないのにネタにした自分の非礼さがもっと怖い。以来よく知らない事はネタにしなくなったけど多分正解。
日本はOne for allだけど、All for oneではないよな、とふと思った。 個人が全体を気遣えるのはとても良いことだけど、全体のためにその個人を犠牲にしがちなんだよなと。 全体も個人も大事にできるようになれば、今よりもっといい国になるんじゃないかなぁ。
今日びっくりした。久しぶりに美容院行って髪染めてルンルンでお買い物してたら、角から入ってきたマダムに気づかずぶつかりかけてしまった。そしたらマダム「ま!」と驚いた後にっこりほほえんで「お人形さんかと思ったわ」と。え、ちょ、マダム、まじ?気品と人格ヤバすぎん?こんな大人になりたい…
偉い=人を傷つけてもいい、ではない。 努力家は偉い、社長は偉い、お金払う方は偉い、それはそうなんだけど、「努力が足りない人間はクズ」とか「社員は奴隷」とか「お金払ってもらう側は何でも聞け」っていうのは違うよなぁと。 偉いもんは純粋に褒めれば良くて、他を踏みつける必要はないんだよね。
後悔はしてもいい。 落ち込む事もあっていい。 でも一番いけないのは、後悔ばかりするうちに今あるものまで失う事だよ。 去った人を追いかけるうち今いる人を失ったり、落胆するうち生きる意味を失ったり。 失ったものはかえらなくても、今あるものを守る事は忘れないでほしい。ペンギンからのお願い🐧