子供は勿論、大人こそ日々学ばないとだよね。 いくつになっても知らない事は沢山あるし、学んだ事も忘れちゃうし。 何でも知った気になってふんぞり返り、子供の頃絵本で学んだような思いやりさえ忘れてしまうのが人間。 おじいちゃんおばあちゃんになっても目をきらきらさせて学べる人になれたら。
他人が自分のものさし通りに動いてくれると思ったらいけないよ。 自分がダサいと思ってることをカッコイイと思ってる人もいれば、ありえないと思ってることを常識として生きてる人もいるのが当たり前。 相手がそれを押し付ける権利もないし、自分のルールを相手に押し付けることもできないんだよね。
“あなた”がやることに意味がある。 自分は上手くできないし…とか、他の人はもっと有能だし…とか、行き過ぎた謙遜でやってきたチャンスを逃しちゃいけないよ。 上手くできるかどうかより、“自分”がやってみることに意味があるんだ。 やらなければゼロ、0.1でもやったものは得られるようになる。
「病人は病人らしく」 「障害者は障害者らしく」 「被害者は被害者らしく」 これ、全部間違いだと思う。 たとえその人にどんな病気や背景があったとしても、今をどう生きるかは自由だ。 笑うな、お洒落するな、可哀想ぶってろと他人が口出しすることもなく、今や未来を幸せに生きられたら。
自分が笑えば、相手も笑う。 自分が怒れば、相手も怒る。 悪いことをすれば悪いことが返ってくるし、 良いことをすれば良いことが返ってくる。 林檎を植えれば林檎が実り、 梨を植えれば梨が実るように、 人生は自分がまいたとおりに刈り取るようになる。
特別な日に特別なことをするよりも、毎日何気ないことを継続することがもっとすごい。 毎日朝起きて、ご飯を食べて、寝て、息をして。 つらいことがあって、悩んで、もがいて、また立ち上がって乗り越えて。 時間がかかってもいい。人と比べなくてもいい。 今日も生きてることが一番大きなことなんだ。
価値あるものほど、できるまでに時間がかかるもの。 愛情たっぷりの料理に繊細な刺繍の着物や洋服、観る人に様々な解釈を与える絵画に今にも動き出しそうな彫刻、原石から何度も削って磨いたダイヤモンド。 人も、自分も、作るまでには時間がかかるもの。 人生一生、作れば作るほど光る作品作りだ。
新しいものは最初必ず叩かれる。 正しいものは反対されるし、知恵ある人もバカにされるもの。 でも、そこで潰れてやる必要もないんだ。 良くても悪くても否定する人はいて、否定されたから悪いものとは限らない。 間違いなら人に言われるまでもなく正す事、やるべき事なら誰に叩かれても貫けばいいよ。
能力の高い人はいくらでもいる。 勉強がよくできる人、仕事で有能な人、運動が得意な人、顔が綺麗な人、人当たりがよく誰にも好かれるような人。 それでも、自分という人間はただ一人しかいないんだ。 自分という人生、自分という考え、自分という心、自分が自分らしく生きられる唯一貴重な存在なんだ
「あなたのため」といって相手も自分も嬉しいことをするなら良いけれど、独りよがりな押し付けや自己犠牲はやめた方がいいよ。 どんなに喜ばせようとしても自分に負担なら相手にも負担になるし、相手にとって余計なお世話なら尚更のこと。 「〜のため」なんてエゴを捧げるならお互い幸せになる方法で。
自分はだめだな、と思うことがある。 でもそんな時は、あの頃よりはマシだな、と過去を振り返ってみればいい。 5年前、10年前に悩んでいたことより、少しは成長しているだろうか。 0.1mmでも前に進んでいるなら上等だ。 悩んで、乗り越えて、また悩んでの繰り返しで人は大きくなっていくものだから。
嫌いなものや人種があるのは仕方ないと思うんだ。 例えばみかん嫌いな人に「ダメ!絶対みかんを好きになれ!」とは言えないし。 でも同じようにみかん好きやみかん農家さんがいるような場で「みかん好きは人としておかしい」「今すぐ栽培も輸入もやめるべき」って言うのもやめた方がいいと思うんだ。
「いたい」って一言いえれば治せる傷だったのに、誰にもいえずに隠してきたから残ってるんだよね。 言えばもっと傷つけられたり、甘えられるような環境じゃなかったり。 でもそうやって生きていくうちに、人も変わるし環境も変わる。 大丈夫、治す方法はいくらでもあるさ。
心の傷も体の傷も、癒す方法はいくらでもある。 でも過去あったことが綺麗さっぱりなくなるわけじゃない。 火傷は痛みなら癒せても跡が残る。痛かった記憶も残る。 その跡を見て何か言う人もいれば、そんなの気にせずつるんでくれる人もいる。 大切なのは、自分が跡や記憶に囚われずに生きることだよ。
人の評価なんて、実は大したものじゃない。 星1のお店も行ってみたらすごくおいしかったり、酷評だらけの映画も自分にとっては最高の感動作になったり。 「あの人変だよね」なんて噂されてる人と、話してみたら意外と気が合ったり。 評価はあくまで1つの基準、大事なのは自分が直接感じることだよね。
私には「この人に出会わなければ死んでいた」ってくらい尊敬している命の恩人がいるけど、彼を盲目的に英雄視しちゃいけないんだなと思う。 彼は私にとって最高の英雄だけど、人は人。 きっと彼が人であることを忘れたら一生勝手な理想と憧れを押し付けて、その苦労や涙を見えなくしてしまうんだろうな
自分の人生の主人公は自分自身だ。 時には人とぶつかったり踏み荒らされる事があったとしても、人生のハンドルまでは奪われちゃいけない。 何をするか、何をしないか、何を選んで何を捨てるかは全部自分が決めるんだ。 「あの人に言われたから」といってしまえば楽だけど、それは自由を捨てる事だよ。
人生を決めるのは自分だけど、決めた通りになるとは限らない。 それでいいんだ、思い通りにならない事が当然なんだ。 進路を決めるのも自分、努力するのも自分、でもどうなるかは分からない。 合格先で嫌な奴に会う事もあれば、落ちた先で親友ができる事もある。 思い描くものが全てとは限らないからさ
ついカッとなりそうな時は、自分の前に鏡があると考えてみよう。 はたしてきれいな顔か、醜い顔か。 叱るべきこと、きちんと指摘した方がいいこともあるけれど、感情任せに怒るのは別の話だ。 理不尽に怒るのが習慣な人には、ちょっと鏡突き出してみたいよね。 人生いい顔して生きた方がいい。
悪意のない言葉が悪意あるように聞こえちゃう時は、つかれてるんだよね。 そんな自分が悪いって言うんじゃなくて、そんな時もあるよねって思えばいい。 つかれること、誤解することは誰でもある。 苦しいのに自分を責めたらもっと辛くなるから、よしよし少し休もうねって優しくしてあげたらいいよ。
クレーマーって損だよなぁと思う。 まともな指摘ならともかく、理不尽なクレームをわざわざ探して難癖つけて相手が望み通りの反応でなければよりキレて…って自分が疲れない? むしろサンカー(Thanker)になって「いつもありがとう」とか「おいしかったよ」って伝えてお互い笑顔になる方が幸せだよね。
他人が求める自分像なんて壊しちゃえばいいよ。 親でも恋人でも、相手の理想に縛られなきゃいけないルールなんてない。 人が押し付けた理想の型に自分をはめて、はみ出た部分を切って自分じゃないものをくっつけてたら、何者か分からなくなっちゃうよ。 ポンコツでも有能でも君の代わりはいないんだ。
人間関係、一番拗れるのは対話が少なくなった時。 悩み事とか感謝とか「言わなくてもわかるだろ」と言葉を疎かにしていくと、いつの間にか距離ができて誤解や争いに繋がるもの。 今は話せないような状況か、話にならないほど相手がひねくれ者とかでない限り、大切な人との対話は大事にした方がいいよね
発達障害や精神疾患、アダルトチルドレン等をまとめて「厄介人間」くらいにしか思ってない人に出会うと悲しくなるけど、だからこそ発信していかなきゃなと思う。 足りなさの正当化ではなく、事実としてのもがきや努力を。 人は知らないから残酷になれるし、知ることが優しさへの第一歩なんだと思う。
虐待や機能不全家庭による“和解できない”親子の話になると、なぜか子供側が「冷たい」「親不孝だ」と言われがちだけど、そもそも原因が子供だけにあるわけがないんだよね。 顔合わせるだけでお金せびられたり、肉体的・精神的暴力にさらされる人もいるわけで、気持ちの問題だけじゃないんだよなと。