人は本当に好き勝手あれこれ言う。 人の気も知らず、何も分からないくせにね。 だからさ、そんな言葉に振り回される必要なんてないんだ。 身勝手な言葉を鵜呑みにして後悔したところで、相手は責任なんてとってくれやしない。 自分の人生、自分が選択するんだ。
死ぬほど辛い人へ 人間、死のうとしなくても、時になったら皆終わりがくる。 それなら、今無理して、辛い思いをしてまで死ななくても、いいんじゃないかなって。 今あなたが抱えている苦しさを、私は100万分の1も分かってあげられないけれど。 今日も、明日も、これからも生きてくれたら嬉しいです。
人生を生きながら、全くきれいに生きられる人なんて一人もいない。 誰しも数え切れないほどの間違いがあって、失敗があって、思いがけず相手を傷つけ、傷つけられながら、生の汚れがついていく。 だから、毎日体を洗うように、毎日心を洗って生きることが大切なんじゃないかな。
「普通に考えて、○○して当然でしょ?!」って怒る人いるけどさ。 その「普通」とか「当然」って、ただあなたの中で当たり前なだけであって、他の人にとってもそうだとは限らないんだよね。 だから、押し付ける権利もなければ、押し付けられる義務もないのでヨロシク〜🙋
誰もがゆずれないものを持っていて、いいと思うんだ。 でもね、それで他人を傷つけたり、押し付けたりするのは、やめといた方がいい。 自分の信念は自分を支えるためにあるもの、他人を傷つけるために使うものではないんだよね。
他人に迷惑をかけられたら「許してあげる」と考えるのではなくて、「お互いさま」と思うようにしてる。 私もしょっちゅうやらかしてるもんね、いつもありがとう。
陰口・悪口への一番の対処法は、とにかく気にしないこと。 世の中には誰でもいいから悪口を言いたいだけの人や、自分とは根本的に価値観が違い過ぎて分かり合えない人がいる。 そういう人の悪口は気にする価値さえない。 自分を嫌う人の為に時間を使うくらいなら、大切な人の為に使った方がずっといい
人のせい、環境のせい、生きづらさの原因は色々あるけど、結局一番大きいのは自分の考えの問題だ。 もちろん、全部が全部自己責任論では片付けられないけれど。 でも、生きづらい考え方を抱えている人は人や環境を変えても苦しいし、考えを変えた人はどんな状況でも幸せを見つけて生きていく。
めちゃくちゃ嫌なやつがいたとしてもさ、その人の不幸を喜ぶような人にはなりたくないよね。 べつにその人のためっていうんじゃないけどさ。 ただ、相手が誰だろうと人の不幸を喜ぶようになっちゃったら、そんな自分がちょっとやだなって思うんだ。
とにかく誰でもいいから悪口を言いたいタイプの人には、何を言っても無駄。 こっちがどんなに誠実に対応したり、誤解を解くために言葉を重ねたところで、また別の文句を見つけてくるだけだ。 そんなくだらない人の言葉には、構ってやる価値も傷ついてやる価値もないよ。
本当は頑張れるのに頑張らない理由を作ってるなら、それは言い訳。 でも、本当はもう頑張れないのに「こんなの甘えだ」「言い訳してる場合じゃない」って考えるのは違う。それは言い訳じゃない。 でも多分日本にはこの考えの人が多いし、自分だけじゃなくて人にも押し付けがちだから気をつけないとね。
心も体も倒れてからじゃ遅い。 手遅れとまでは言わないけれど、倒れる前に治すのと倒れてから治すのとでは、圧倒的にかかる費用も時間も労力も違ってくる。 車も調子悪いなってうちに修理しておくのと、事故ってからなんとかするのとでは全く違うのと同じ。 お願いだから倒れる前に気づいてほしい。
皆体の不調だけじゃなくて精神的にしんどい時にも、もっと気軽に早く病院へ行ってほしい。 体だって倒れてから病院行ったら既に末期だったとかあるんだから「これくらい大丈夫」と思わないで早く受診しておくに越したことない。 行ってなんともなければOKだし、病気なら重症化する前に防げるんだから。
本当は痛いのに、痛くないふり。 本当は泣きたいのに、大丈夫なふり。 本当は苦しくてたまらないのに、幸せそうなふりをして。 そうするうちに、いつか何が「ほんとう」なのか、わからなくなってしまうから。 時には「がんばったねぇ」って、自分を省みてあげられたら。
愛されたいなら、まず誰かに愛されようとするより、自分を愛することからだ。
いつも人の悪口ばかり言う人って、結局本人が一番損してると思う。 何見ても誰と接しても嫌なところしか目に入らないなんて、人生相当つまんないよね。 何見ても悪いところを見つけてプンスコするくらいなら、何見ても良いところを探して喜んで生きた方が幸せだと思う。
他人があなたのことを諦めて、社会があなたのことを諦めても、自分さえ諦めなければ問題ではない。 人や環境が味方してくれないのは確かにしんどいけど、自分には自分という味方がいればわりとなんとかなる。 本当の問題は、自分が自分自身を諦めてしまうことだ。
「もっとつらい人がいる」って言葉は、あんまり好きじゃない。 「つらい」に大きいも小さいもなくて、みんなそれぞれ、もがいているからさ。 できれば人や自分のつらさを比較しないで、一人一人のもがきを認めて、向き合っていけたら。
子どもは親が望む子どもになんてならなくていいし、親だって完璧な親じゃなくたっていい。 お互い勝手な理想と期待を押し付け合う必要なんて、どこにもないんだ。 私たちは子である前に、親である前に、それぞれ一人の人間だから。
人は傷つけられた後、2つのパターンに別れる。 1つは自分が受けた苦痛を誰かにやり返して、憂さ晴らしするパターン。 「昔は自分だって耐えてきたんだ」っていう親や上司がこのタイプ。 もう1つは、自分が苦しんだ分、他の人を同じ目に合わせないようにするパターン。 せっかくなら後者でありたいな。
人の痛みと自分の痛みは比べられない。 「自分はもっとつらかった」 「それくらいなんでもない」 と言ったって、痛みも耐久度もそれぞれなんだ。 100%わかってあげたくてもできないし。 きっと私たちにできるのは1%の理解と、補う分の尊重と思いやりくらい。 完璧じゃなくても、その心が大事なんだね。
割れた器に水をそそいでも、溜めることはできない。 割れた心のまま「あれをしよう」「これをしよう」と言っても、手に掴むことはできない。 どうか、傷ついたまま、見ないフリしていかないで。 大丈夫、割れた器は直せばいい。 焦らずきちんと直してあげてから、また水を注いでいけばいいんだ。
「大丈夫?」って聞かれたら 「だいじょうぶ」って答える強がりよりも。 「だいじょばない」って言える強さがあってもいいんじゃない。 弱い心にフタをしたって、なくなったことにはならないから。 それなら一旦吐き出して、カラにして。 それから、空いた心に沢山元気が出る言葉を入れたらいいよ。
「誰かのために生きること」と、 「誰かの都合良く生きること」は、 イコールじゃない。 「人のため」という綺麗な言葉に惑わされて、自分を殺してしまうなら本末転倒だ。 「自分の人生は、自分のための人生だ」ということを忘れないで。
自分が受けてきた苦痛を「当たり前」だとは思わない方がいい。 なぜなら「当たり前」だと思っていることは、いつか他人にも強要してしまいかねないから。 それが本当に仕方のないことならともかくとして、改善の余地があることなら発展がなくなってしまうから。