頑張りすぎちゃう人に声を大にして伝えたいんだけど、エネルギーは切れる前にチャージするものだよ。 車だってガソリンは切れる前に補充するのであって、切れてからだと大変な事になるでしょう。 「時間ないから…」「迷惑かけるから…」というよりガス欠の方がずっと怖いから、休む時は休むのだ。
「大丈夫」 「だいじょうぶ」 だから、これ以上踏み込まないで。 一度心を踏み荒らされた人は、もう二度と傷つけられないようにと壁を作る。 あるいは、弱い自分を見られないようにと鍵をかける。 でも、そうすると敵も入ってこないし、救ってくれる人も入れない。 外にいるのは全てが敵じゃない。
いや、べつに。 台風の日に予約してた荷物遅れたっていいし。 事前に買っとくから、コンビニとかスーパー閉まってていいし。 極力出かけないから、ショップも施設も閉まってていいし。 お店は消費者を甘やかさずに、普通に命優先してほしい。 自分のちっちゃな欲のために誰か命落とす方が嫌だわ。
好きでやっていたことが「やらなきゃ」と苦痛になった時は、一旦距離を置くか思い切ってやめてみるのがいいよ。本当に大事なことならまた「やりたい」と思えるし、実はもう必要ないものなら手放すいい機会になる。手放せば、また新しいものも掴めるしね。時には立ち止まるのも、悪いことじゃないんだ
謙虚さ=自己否定ではないよ。 謙虚さはあくまで慎ましさであり、 おごらないこと、高ぶらないこと。 「そんな私なんて…」と言うよりも、 「おかげさまで」を忘れないこと。 誰かを引き立てるために 自分を貶すことはないし、 自分を高めるために 誰かをバカにする必要もないんだ。
もっと休んでいいし、遊んでいいと思う。 「休むのは怠慢!」「遊ぶのはもっと怠慢!」って風潮あるけど、休むから健康に働けるし、遊ぶからまた頑張ろうと思えるもの。 休みも遊びも極端に削るから“休まざるをえない”状態になってまた叩く負の連鎖。 働くのと同じくらい、適度な休みと遊びは大事。
守るものがある人ほど、逃げる時は逃げた方がいい。 休む時は休んだ方がいい。 残念ながら今の社会は豊かじゃないところもあるけど、「家族のため」「仕事のため」と限界まで超えて走って倒れたら意味がない。 守るものがあるからこそ、守る体である自分の命が大切だよ。
今年できなかった事より、できた事を数えよう まずひとつ、息をしてきた ふたつ、ご飯を食べてきた みっつ、今日まで生きてきた それができればたいしたもんだ 息苦しい事があって、食事も手につかない事があって、全て投げ出したくなる事もあったろう それでも今生きてるなら、みんな表彰ものだよね
鈴と小鳥とそれから私 みんな違ってみんないい を小学校で教えておきながら、 人と違うことはすぐ指摘し、用意された回答以外はバツをし、社会に出る前には同じような服、同じような髪型、テンプレートの志望動機を語らせ量産型歯車として没個性化させるのは、日本教育一番の矛盾だと思う。
昔ある番組で観た日本とフランスの授業の違い 【日本】 先生「この絵画の名前と作者と作者の出身地を覚えなさい」 生徒「「はーい」」 【フランス】 先生「この絵をみてどう感じた?」 生徒A「僕は○○だと思った!」 生徒B「え〜!私は××な感じがしたなぁ」 上は暗記、下は感性を伸ばす教育だなと
フォロワーさんが何か 「賞を取ったー!」とか 「すごい功績ができたー!」とか 報告してくれるのを見ると勿論嬉しいけど、 「今日はおいしいものを食べた」 「ねこちゃんと遊んだ」 「日向ぼっこした」 とかのツイートを見ると ほんとに嬉しくなるんだよなぁ 小さな幸せ大きな喜び
人間関係、一番拗れるのは対話が少なくなった時。 悩み事とか感謝とか「言わなくてもわかるだろ」と言葉を疎かにしていくと、いつの間にか距離ができて誤解や争いに繋がるもの。 今は話せないような状況か、話にならないほど相手がひねくれ者とかでない限り、大切な人との対話は大事にした方がいいよね
自分にとっては心底傷ついた言葉でも、言った相手は大体忘れちゃってるもんなんだよね。 こちとら何日、何年とグルグルその言葉を考え続けているのにさ。 失礼しちゃうよね。 だからもう、失礼のお返しをしちゃおう。 そんな言葉あっさり忘れてやって、もう関係ないやってくらい今を大事に生きられたら
「こいつは敵だ!」と思うと、その人が正しく見えなくなってしまう。 ある時は嫌な事されたかもしれないけれど、またある時には助けてくれるかもしれない。 自分にとっては嫌な奴でも、誰かにとってはかけがえのない存在かもしれない。 “今自分に見えている以外”を考えられる時、心が豊かになっていく
好きでやっていた事が義務になっちゃうと苦しくなるんだよね。趣味であれ何であれ純粋に楽しんでてきる時間ってものすごく貴重。でもその熱が冷めたって事は、燃え尽きるほど打ち込んだ証拠でもある。もう満足なら手放してもいいし、「ちゃんとやろう」から「楽しくやろう」って原点回帰してもいいよね
たとえば接客業の仕事を続けていると、友だちといる時にも「こちらでよろしいですか?」とかでちゃうことがあるように、普段から見る聞く使う言葉は自分の体質になる。良い言葉も悪い言葉も無意識下に脳に染み込み、いずれ口に出る。ちなみに昔レジバイトしてた先輩は寝ながら隣の人の体でレジ打ってた
叱るよりほめた方がいい。 そりゃもちろん怒ると叱るは違うけど、それでもほめた方がずっといい。 できないところを叱って萎縮させて実力を出せなくするより、できたことをほめてエネルギー注いでやる気にさせたらいい。 ほめて調子に乗る人より、もっと頑張ろうって思える人が多いんだ。
自分を大事にできると、他の人も大事にできる。自分を責めてばかりいると、どこかで人を妬んだり憎んだり、自分にかけるキツい言葉を他の人にも放ってしまうもの。自分においしい紅茶の一杯を淹れてあげられる人は、他の人にも淹れてあげられるんだ。
人は見た目じゃわからない。自分の狭い視野に見える範囲で相手を決めつけることはできない。優先席に座っている学生が見えない疾患を抱えていたり、忘れっぽいあの人は障害にもがいていたり、いつも元気な子どもが服の下に痣を隠していたり、何にもなさそうな人ほど何かを抱えて生きている。
自己否定が癖になると、責められていない事まで責められているかのように錯覚し始める。 小さな失敗や誰も気にしていない事まで「責められているに違いない」と思い込みが強くなっていく内、段々と人に対しても否定的になってしまう。 自己否定は他者否定に繋がり、自己肯定は他者肯定にも繋がっていく
これは実体験なのだけど、食べる事に対して「おいしい」とか「栄養がある」とか一切考えられなくなって「とりあえず空腹を満たす」思考になっている時は危険信号。忙しくてつい…という時もあるけれど、常習的になると心身崩して当たり前状態になる。「おいしく」食べるってとても大事な感覚なんだよね
自己肯定感が低いのは本人だけの問題というより、親や周りの人の影響が大きいんだ。頑張って認められようとしてもボコボコに叩き潰されて、否定的な考えが当たり前になっていって。そうして認めてくれる人が現れても否定してしまったりするんだけど、それを受け入れる時が転換期になると思うんだ。
自分が当たり前にできていることをできない人がいると、「非常識だ」とか「礼儀がない」とかケチをつけたくなる。 でも「これくらい家で教えてもらうでしょ?」って言うのは違う。 当たり前のことを、家で教えてもらえない人は、確かにいる。 ケチをつけるより理解を示すか教えてあげる人になれたら
なんていうか、プライドが高くて絶対に間違いを認めない人っているけど、その間違いを認めない姿が一番かっこ悪いんだよな。目上の方や立場のある人でも、間違ってた時には素直に謝って直せる人がかっこいい。
泣きたいのに泣かず、笑いたくないのに笑ってごまかすことに慣れると、本当の感情が分からなくなる。あれ、本当に悲しいんだっけ?と自分の感情に鈍くなれば人の感情にも鈍くなってしまうし、感知されなくなった痛みは癒されないままになってしまう。心の底から泣くこと笑うことが大事な時もあるんだよ