息をするまでが生きている時 息をとめれば終わりの時 愛するまでが愛している時 愛をやめれば終わりの時 今が永遠だと思っても いつか目の前の人にも終わりがきて 自分の時もやってくる 永遠のような今が終わる時 永遠のような愛が終わる時 その日を後悔なくするには 今を大切に生きる事だけなんだ
少子化対策は必要なんだけど、これから結婚する家庭の支援も悪くないんだけど、今日本の子どもたちの7人に1人が貧困だったり、半数近くの子が奨学金という名の借金を背負って社会人スタートしなくちゃならない現状をみて、新しく増やそうとする前に今生きている子どもたちをもっと支えてほしいと思うな
「こうしたらいいよ」「こうするのもアリじゃない?」を「何がなんでもこうしろ」と捉える人がいるし、「これってどうなのかなぁ」を「こういうやつ大嫌い絶対許さない」と解釈する人がいるけど、多分本人が普段0か100かの思考なんだよね。極端な思考は人にも自分にも牙をむくから認識の自己点検大事。
心の問題と体の問題をごちゃ混ぜにしてはいけない。 心が悲鳴をあげているのに「まだ大丈夫、寝ればなんとかなる」といっても解決されないし、不健康な食事や生活で体が動かないのに「私の心が弱いせいだ」といってもお門違いだ。 故障かな?と思ったら、まず心と体の問題をハッキリと区別する事が大事
鎌倉で接客業をする友人から「今ものすごく客が多くて忙しい」と聞いて唖然…。今観光に行けばその素敵な観光地を集団感染で壊すかもしれないし、ウイルスを持ち帰れば家族を失うかもしれない。今リスクの中で観光するより、収束してから安心して観光した方がずっといいよ。GWも家活楽しもうなんだぜ。
寄り道のようで寄り道じゃない事って沢山あるんだなぁ。昔なんとなくやっていた事が思いがけないところで活かされたり、過去苦しかった経験が今同じようにつらい人の助けになったり、挫折した経験が次の挑戦のバネになったり。どんな過去も「あの時のおかげで」と意味を見つけるようになったらいいよね
前にフォロワーさんが「熱が37℃で吐き気がひどい…でもこれくらいで休んじゃダメだよな」みたいに呟いててちょ待ってェ!ってなったんだけど、個人というより社会の問題が大きいんだよな 故障した車をそのまま走らせれば事故が起こるし、故障させない/したらメンテナンスが当たり前にできたらいいよね
何でも人のせいにするのも問題だけど、何でも自分のせいにするのも問題だ。 優しい人ほど色んな事を自分のせいにして、負わなくてもいい責任まで負ってしまうけれど。 全部が全部、一人で背負い込んだところで解決するとは限らない。 何でも自分のせいにすることで、解決しようとしなくていいんだよ。
人を変えることはできないけど自分を変えることはいつでもできるし、自分が変わると周りの人も変わったりするんだよな。不思議。
日本はOne for allだけど、All for oneではないよな、とふと思った。 個人が全体を気遣えるのはとても良いことだけど、全体のためにその個人を犠牲にしがちなんだよなと。 全体も個人も大事にできるようになれば、今よりもっといい国になるんじゃないかなぁ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」 いつも謝っては、人の顔色を伺って生きてきた。 悪いことは全部、自分のせいにすればいいんだと思ってた。 そうすれば誰も傷つかないし。 でもさ。 それって、自分は傷ついているんだよね。 なんであなた一人が犠牲になるのか。 いいんだ、一人で背負わなくたって。
友達にふざけて「もう私の手は汚れてしまった…」って言ったら「じゃあ洗えばいいじゃん」と返されてハッとしてしまった。何事もやっちまったなぁって後悔するだけならそのままだけど、洗えばおちる汚れも沢山あるように、今できることをやれば解決できる問題も山ほどあるんだよなぁって。大事なのは今
「あなたのため」といって相手も自分も嬉しいことをするなら良いけれど、独りよがりな押し付けや自己犠牲はやめた方がいいよ。 どんなに喜ばせようとしても自分に負担なら相手にも負担になるし、相手にとって余計なお世話なら尚更のこと。 「〜のため」なんてエゴを捧げるならお互い幸せになる方法で。
世の中には一人で持てる荷物と、一人では持てない荷物がある。 それなのに、一人では持てない荷物を前に一人で戦い続けて、力尽きて、へたりこんで「自分は無力だ」なんて落ち込んだりする。 違う、違うんだ。 それは一人で戦うものじゃなかったんだ。 一人ではできないこと、一緒にやればいいんだよ。
感謝は何度してもいいんだ。ありがとうと言って言い過ぎることはないから。受けた恩を忘れたり気づかなかったりするくらいなら、しつこいほどでも一生繰り返し繰り返し感謝すればいい。その時に感謝して、思い出して感謝して、記念にして感謝して、大切な経緯はいつまでも色褪せないようにできたら
期待に外れた途端「思ってたのと違う」といって離れる人は、その程度の関係だったんだなと思う。 結局、その人が愛していたのは本当の自分ではなく、その人自身の勝手な理想であり妄想を愛していたのに過ぎないから。 本当に大切なのは、どんなに期待外れでも変わらずおもい続けてくれる存在だ。
人は考えのドツボにハマると、何でもない事まで大きな問題に見えてくる。 目線が外れた相手に嫌われてると感じたり、名指しでもないTwitter上の呟きが自分を非難する言葉に見えてしまったり。 簡単な解決は、モヤモヤを紙に書き出してみること。 考えの波に溺れてるなら栓を抜いてあげればいいんだよ。
私は偉い人にも良いもん食べてもらいたいと思ってるし「貧しい人もいるのに高級食なんて食うな!」とは思わない。その人がきちんと栄養もとって休む時は休んで、元気に働いてくれたら有難い。ただ、社会には食に頓着する余裕もない人々がいる事に向き合って、皆で美味いもん食べれるようにしてほしい。
何でもかんでも「上手くやること」「失敗しないこと」ばかり考えていると、人生面白くない。 あ、それ私だなっていうちょっぴり真面目なあなたは、「楽しくやること」を目標にしてみたらいいよ🙆 上手くいってもいかなくても、楽しくできればそれでOK。 たまには肩の力を抜いてみてね。
痛かったこと。 辛かったこと。 悲しかったこと。 憎らしかったこと。 確かにいつまでもそれに囚われていたら、自分が苦しいだけだ。 でもかといって負の感情を全否定して「なかったこと」にすることはできない。 感情には蓋をするのではなく。 きちんと消化することが、自由のヒントだと思うんだ。
恩を仇で返すのはダメだけど、仇を恩で返せる人はすごい。簡単にできることじゃないけど、敵のような相手にも恩で返せる人は絶対に損をしない。敵が味方になってくれることもあれば、敵は変わらないけどそれを見ていた周りの人たちが変わってくれることもあるし、何十年後に報われることもあるんだよね
悪意を持ってクレームをつける人よりも、正義感でクレームをつける人の方が悪質なんだよな。悪意でやる人は自分が飽きるか満足すればやめるけど、正義感でやる人は周りに正義を認めさせるか、自分で間違いを認めないとおさまらない。間違わないことは無理だけど、間違えたら認める強さを持てたら。
自分が普段がんばっている事や、当たり前過ぎて意識していない事はノーカウントで、ちょっと上手くいかなかった事、失敗した事は100をかけてカウントする。 それじゃあやっぱり、苦しいよね。 当たり前に生きてきた事がすごい。 息をして寝て食べて、もがきながら生きてきた事は本当にすごいんだよ。
自分が今すべきことと、あの人が今すべきこととは違う。 自分にとっては走る時でも、あの人にとっては休む時の場合もあるし、あの人にとっては走る時でも、自分にとっては休む時の場合もある。 だから、誰が何をしているからと言って流されず、いつも自分のすべきことをすればいい。
割れた器に水をそそいでも、溜めることはできない。 割れた心のまま「あれをしよう」「これをしよう」と言っても、手に掴むことはできない。 どうか、傷ついたまま、見ないフリしていかないで。 大丈夫、割れた器は直せばいい。 焦らずきちんと直してあげてから、また水を注いでいけばいいんだ。