ヘイトや差別を吐き散らしてきた人物を政権の要職に起用することは、差別問題など考慮するに値しない、というメッセージになってしまうし、もっといえば、その差別やヘイトの矛先を向けられている人たちの命を「二の次」扱いするようなこと。「杉田氏でなければならない」理由は何なのか。
今朝のサンデーモーニングをご覧下さった皆さま、ありがとうございました。番組内で発言の機会がありませんでしたが、張本さんの発言を「蔑視と”受け取られかねない”」ものと表現されたこと、それを女性のキャスターの方が伝える形をとったことは、再発防止にはつながりえないものだと私は考えます。
小泉政権時、中学生だった私は最初「自分の街出身の総理!ノリがよくて親しみやすそう!」と無邪気に報道を見ていた。そしてアメリカのイラク侵攻を政権は支持。何万人もが根拠さえない戦争で犠牲になった。だから今、次期総理候補の「素顔」を特集し、親しみやすさを伝える番組に、危機感を抱く。
先日亡くなられた岡本行夫さんが、ご一緒した最後のサンデーモーニングで、赤木俊夫さんの手記についてこう語っていた。「私も長いこと役人でしたが、文書と記録は役人の命。不利なことをなかったことにするのはありえない。赤木さんの死に、粛然と対応してほしい」。
首相から何度、「責任を痛感している」を聞かされてきただろう。痛感しています、反省しています、という言葉だけ繰り返せば、具体的な行動が伴わなくていい、という例を、次世代の子どもたちに見せたいとは思わない。責任ってただ「痛感する」ものではなく、行動で示すものだよ。
当初、この問題に言及することに躊躇しました。「出自を明かすと、攻撃の対象になる」と知らしめることにもなってしまうのでは、と。けれども、次々に声をあげた人たちに背中を押され、改めて、自分の言葉で語ってみようと思いました。「扇動」が何をもたらすのか、について。 d4p.world/news/17940/
スポーツで選手が実績を出せば「日本の誇り」と称賛され、彼ら彼女たちが政治に対する意見を示したら「口を出すな」と叩かれる。その都合のいい「愛国」に、私は「愛」を感じません。
「技能実習生が来日できず労働力が足りない」という時点で、「技能実習」というのが建前にすぎないことが浮き彫りになっている。 mainichi.jp/articles/20200…
被害に遭う側が「隙を見せないよう」「気をつける」ようにとの呼びかけポスター。公の場で目にするものって、無意識のうちに内面に刷り込まれていったりする。盗撮などの性暴力は、加害者の問題であり、被害者側のふるまいの問題でない。
日本ではまだ、「批判の仕方」だけではなく、「批判」そのものが「場を壊す」「空気を読めていない」とタブー視、嫌悪されがちだと思う。だけど社会をよくするために、批判は欠かせないもの。この数カ月、少しずつだけど支援策が改善されてきたのも、声があがったから。 #検察庁法改正法案に抗議します
これは”ぼやき”ではありません。パワハラです。 「真面目に聞いてんだよ、オレが。あんたら新聞社だから、それくらい知ってんだろ?」 news24.jp/articles/2021/…
世帯主の口座に、家族の給付金がまとめて振り込まれることになるよう。全ての家族が”円満”であれば、機能するのかもしれない。でも、その世帯主がDVや虐待の”加害者”になっていしまっているのなら、給付金がその口座に集中することで、余計に支配関係を強めてしまう。 www3.nhk.or.jp/news/html/2020…
過去、森喜朗氏は「子どもを一人もつくらない女性が、年とって税金で面倒みなさいというのはおかしい」など女性蔑視の発言を繰り返してきました。そこから何も学んでいないのでしょうか。 digital.asahi.com/articles/ASP23…
「自分は我慢してるのに、あいつは我慢してない」というような過度な”監視”が相次いでいるけれど、監視すべきは「安心して休業して」といえるだけの支援策が遅れに遅れている政策の方だよね。それはメディアの姿勢にもいえること。
今朝のサンデーモーニングをご覧下さった皆さま、ありがとうございました。1年振り返ると「大変な時に政府批判をしている場合か」という声が強まった時期もありました。でも、「批判」は置き去りにされがちな問題をあぶり出すためのもの。政治への問いかけは、よりよい社会を目指すから必要だと思う。
「会見」は、様々な疑問に答えてこそのものだと思う。「断腸の思い」等々、安倍総理の「お気持ち」を最初に長々と伝えるより、何が決まったのかを簡潔に解説してくれた方が分かりやすいし、その分、質疑応答に時間を使えるはず。
以前にも書きましたが、「日本には表現の自由、投票の自由があるはずだけれど、投票率が低い」と話したとき、シリアの友人が絶句してしまったことがある。その「自由」を求めて11年以上、あまりに多くの人々が犠牲になってきたから。その「自由」は「当たり前」ではないんだよね。
首相会見、「五輪開催はIOCが決定している」「IOCに権限がある」と繰り返していたけれど、人の命や生活を左右しかねない決定をIOCに委ねるかのような無責任な発言だと思う。その決定が果たして妥当なのか、人命最優先で提言していくのが政府の役割ではないのだろうか。
選挙で選ばれた=全権委任された、ではありません。国政選挙自体はカレンダー上、約3年実施されないことになりあすが、デモや署名など、意思表示の方法は投票以外にもあります。選ばれた人間がそれにどう向き合うか、注目はこれから。
以前出会った沖縄出身の大学生が「東京に来て、6月23日が何の日かあまり知られていなくて驚いた」と話していた。私自身も大学生のときに、「沖縄慰霊の日」とすぐ答えられていたか、恥ずかしながら自信がない。当時は戦火で、今は「関心を寄せない」ということで、沖縄を追い詰めていないだろうか。
目指すべきは、神の国、ではなく、民の国、だ。
言葉の暴力が、身体的な暴力と比べて軽い、なんてことはありません。
国連から「拷問にあたる」と再三勧告を受けても外国人を無期限に収容し続け、命に関わる給付金は留学生の成績で線引きをするこの国で、子どもたちに「差別をしてはいけません」とどこまで説得力をもって語りかけられるだろう。
「ウクライナへの侵攻に反対するなら現地に行って戦え」と、「政治に不満があるなら政治家になってから言え」は重なると思う。誰しもに、侵攻にNOを言い、政治に対して発言する権利はある。むしろ権力者が人々の口を塞ぎ、沈黙させることこそ、社会をより不健全な方向に突き落とすのだと思う。
例え自分が投票した候補が落選したとしても、「がっかり」「もう終わった」ではない。今度はその選挙区から当選した別の候補が、国会でどんな発言をし、どんな行動をしていくのか見続ける。私たちは改めてその「スタートライン」に改めて、立っているのだと思う。