きしもとたかひろ(@1kani1dai)さんの人気ツイート(リツイート順)

いつも褒めてくれる人が、実は僕のことを思い通り動かしたり勝手な理想像に近づけるために褒めているのだとしたら、ショックだし人として軽んじられてるようで信用できないよね。大人同士ならそれが失礼だと思うのに、子どもに対しては気をつけていないと簡単にそういう関わりをしてしまう。
今回は「テレビを壊したい、ただガラスを割りたい」と言った子との関わりで感じたことです。 正しい答えとしてではなく、色んな葛藤を共有する気持ちで書いています。 chanto.jp.net/childcare/baby…
その子にとっての特別な人として記憶に残らなくてもいいから、「自分は大切にされていた」という経験だけはその子に残したい。いつか不安になった時に「誰か覚えてへんけど大切にしてくれていたよな」と思い出してくれたら。自分は大切にされるべき存在だということを疑うことなく育っていってほしい。
教育や指導をする時に「できていないことを指摘する」のではなく「できていることを伝える」ように気をつけていて、その時にイメージしていたことを簡単にまとめてみました。
先輩保育士と、自分たちが上に立つ時にはこんな職場環境にしたいねって話してたこと。
「そんなことでいちいち傷つかれたら何も話せなくなるよ」という理論には、悪いけど「なら話しかけないでください」としか思わないよ。意図せず傷つけてしまうことは責めるべきではないと思うけれど、傷つくことを繊細すぎると非難したり対話に支障をきたすことを傷つく方のせいにしちゃいけないよ。
仲間はずれにされている子がいたときに、ぼくが気をつけたいこと
主体性というのは、なんでも率先してやろうとすることではなく、やらないことも自分で決められること。自分で決めてもいいし決めなくてもいいと思えるような安心できる環境を。主体性を持たせるのではなく、生活に主体性を感じられたらいいなと思う。
生徒が行動して校則を変えたってニュース見て思うのは、それ自体はすごいことだけど「子どもたちが切り開いた」という美談にしちゃいけないんじゃないかってこと。大人が変えなきゃダメだろうと。少し過激な表現かもしれないけれど「大人が守れなかった」なんじゃないか。明らかな人権侵害となるような
ごめんねいいよの代わりの言葉を見つけられたら、謝りたくないのに謝ったり、許したくないのに許したりしなくていいのかなって思う。
人に厳しくされたことが結果的によかったと思えるとしたら、それは厳しくされたことがよかったのではなく、そのつらい状況でも踏ん張って生きたあなたがすごいんだよ。繰り返すけど、厳しくすることやつらい思いをさせる方法がよかったからではないからね、わざわざ誰かにそれをする必要はないんだよ。
「これまでの教育と、これからの教育について」 今までの社会に合わせるのではなくて、これから生きていく人たちに合わせた社会を作っていきたいよね。
怒鳴る子への対応の仕方ではなく、自分が子どもに怒ることについて振り返るきっかけになったっていう意図のツイートです。相手をコントロールできると思っているんじゃないかと気づいたことで、子どもや相手に対して怒るのが減ったという話です。分かりにくい文章になっていてすみません。
手を出してしまう子との関わりで、ぼくが気をつけたいこと
「ごめんなさい」が言えない子との関わりで、僕が気をつけたいこと
子どもが作ったものがどれだけ不恰好でも手を加えたり修正したりはしないようにしている。ましてやふざけてイジったり壊したりは絶対にしない。僕なら自分を否定されたように感じて傷つくし大切にされていないと感じてしまう。大袈裟かもしれないけれど、その子の作ったものはその子自身だと思ってる。
自分の「気にくわない」という感情に気づけるようにする。努力しない子、泣き虫な子、理屈っぽい子、怠け者の子、意地悪な子、そんな子を見て「あなたのために」とかもっともらしい理由をつけて指導しそうになるけれど、立ち止まってみると、ただ自分が気に食わないだけってことが多くてヒヤッとする。
子どもと対等であろうと思ったときに必要なのは、子どもを自分と対等に扱うことではなく、まず自分が優位な立場にいてほとんどの権力を有していると自覚すること。相当な配慮をしてやっと少し目線が合うくらいだと思っておく。ぼくは対等にはなり得ないと自覚しながら、対等であれるように努めている。
事が進んでほしいという思いは誰だって持っていて、それは自分勝手なことでも悪いことでもない。そんな自分がいることをまずは許してあげて、その上で立場や関係を利用してそれを強行してしまわないように、ちゃんと相手をひとりの人として尊重できるように気をつけていく。それが折り合いだよね。
「いま助けたら本人のためにならないんじゃないか」と悩んだ時には、迷わず助ければいい。その助けはそのば限りのものではなく、その子が「自分を大切にして思って守ってくれる人がいるんだ」と感じてもらう経験であり、そのままその子の生きる力になるから。助けてあげればいい。守ってあげればいい。
これからの保育や教育について みんながしんどくないように、目の前のできることを小さくても積み重ねていきたい。
紙クルクルは認知能力で、寿司を諦めない力や工夫して解決する力が非認知能力と言われていて、この非認知能力は幼少期からひとりの人として大切にされながら育まれていきます。と、むりやり保育の話に繋げてみる
差別や虐待、パワハラやモラハラなんかも、「そんなことをする人間は最低だ」と言ってしまうと、それをしてしまった時に「自分はそんな最低な人間ではないはず」と省みることが難しくなってしまうから、「それは悪いことだけど誰でもしてしまう可能性があるから、気づいたら改めようね」と伝えたいな。
自己肯定感が低いとか高いとかいう言葉が、さらにその人の自己肯定感を削るものにならないように、優劣の指標にはしないよ。生きづらさが減るように、少しでもしんどくなく自分らしく生きる助けになる視点として持っておけたらいいな。
保育の専門性というのは、子どもを重い通り動かしたり子どもの能力を伸ばしたりすることではなく、子どもの権利を保障することなんだよね。子どもの権利のなかのひとつに「育つ」があって、それを促すというよりかは保障するの。手を加えるのではなく、邪魔にならないようにそのための環境を整えるの。