きしもとたかひろ(@1kani1dai)さんの人気ツイート(新しい順)

なるべく怒らないように子どもと関わろうとすると、自分が嫌なことも我慢しなきゃいけないように感じるけれど、むしろ逆で、はっきりと「私は嫌だ」という感情を伝えていいと思ってる。ただその時に「その子のために」とか「教育やしつけのために」という理由をつけないように気をつける。また、それが
【子どもが「いいこと」をした時に、褒めてのばしたくなるけれど】2/2 画一的な方法論は、本質から遠ざかると思っているので、ひとつの視点として見ていただけたら幸いです。
【子どもが「いいこと」をした時に、褒めてのばしたくなるけれど】1/2 片付けや整理整頓など、大人にとって「いいこと」と思うことを子どもがやった時に、僕が気をつけたいことです。
子どもが「あの子意地悪な子なんだよ」と言った時には「あなたが意地悪されて嫌だったんだね」と共感しながら言い換えてあげる。その人の言動だけを見て「〇〇な人だ」と決めつけてしまわないよう、けれど「自分はこう感じた」という思いは本当だから、それは大事にしながらそこで留めておけるように。
「社会の理不尽に耐えるための練習」は必要ないし、むしろ本人を追い詰めるよ。どれだけ劣悪な環境でも逃げ出すことができずに潰れるまで耐え続ける人が現実にいるんだよ。そういう社会ならなおさら、理不尽にあった時に自分の身を最優先にできる自尊心と、そのための方法を見つける力の方が必要だよ。
その気に食わないという感情自体はいいと思うの。感情やからね。ただ、そこで怒っていることを「自分が気に食わないから怒ってるんやな」と自覚しておきたいという話。そこで冷静になって、何度も言うより別の方法がいいなと切り替えるタイミングになったりする。
よくない行動を見過ごせなくて何度も注意するうちに、その行動を問題視するのではなく「何度言っても改善しないこと」や「何度言っても改善する様子がないその子の態度」に怒っていることがある。そうなったら「その子のために指摘している」ように見えて「気に食わなくて怒っている」になってしまう。
「自分が上の立場になったら今このピラミッドをこうひっくり返して、子どもや保育士を支える役割でいたい」と話していた先輩保育士から少し出世したと連絡がきた。喜びの返信をすると、そこまで偉い立場じゃないけど現場の保育士に寄り添っていきたいと返ってきた。がんばってほしいな。
子どもが好きなことや夢中になっていたことが、他に興味が移っていって興味を示さなくなったり飽きたりすることは自然なことだけれど、燃えている炎がネガティブな理由で萎んでいくことってとても悲しいことだよ。その時は安心できるけど、本当はそんな姿見たくないんじゃないかな。たとえばそれが、
子どもが夢中になったり好きなことについて、むやみに否定しないというのは大切なことだしそれを踏まえての一つのアイディアだろうから無闇に批判したいわけじゃなくて、子どもを支配したくないと思って選んだ方法が、結果的に支配する方法になって、それに気づきづらくなるかもしれないという懸念。
YouTubeとかゲームとか、子どもが夢中になりすぎて嫌だなと思ったりよくないんじゃないかと心配になったりした時に、「あえて禁止にはせずに、逆に義務にすると子どもの方から嫌がるようになる」というような方法を聞いて、それが子どもを優しく支配する成功体験となってしまわないかと懸念している。
【その子のために少しくらい無理をさせたほうが…と悩んだ時に、僕が気をつけたいこと】 今しんどいことをするか後でしんどくなるかという葛藤は一日に何度もあるからこそ、本当のその子のためになるように軸足をしっかり固めておきたい。漫画は再掲です。
子どもを取り巻く環境の課題解決のために、「子どもの権利を保障した保育・教育現場を実現したい」と思っている園や学校、児童福祉の事業や施設、自治体のサポートに力を注ぐことに決めました。 色んな形で力になれたらと思っています。必要だと言ってくださる方は一度ご連絡いただけたら嬉しいです。
【「寒いのに上着を嫌がる子」を説得する時に、僕が気をつけたいこと】 日常の些細なやりとりのなかで、子どもをひとりの人として尊重することと、その子のためを思って僕がすることの間で葛藤があって、その葛藤こそが子どもの権利を守るということなのかもしれないなというお話です。(久々の新作)
怖がらせて言うことを聞かせようとする自分に気づいてやめたら、今度は不機嫌な態度で思い通りに動かそうとしている自分が顔を出す。それをやめても、褒めておだてて思い通りに動かそうとしていたり、自然な会話を装いながらも最終的には思い通りに動かそうとしている自分がまだいる。自分の思い通りに
事が進んでほしいという思いは誰だって持っていて、それは自分勝手なことでも悪いことでもない。そんな自分がいることをまずは許してあげて、その上で立場や関係を利用してそれを強行してしまわないように、ちゃんと相手をひとりの人として尊重できるように気をつけていく。それが折り合いだよね。
いい子育て方法というものが、自分から片付けるようになるとか勉強するようになるというような、大人が求める姿に近づけるためのものだと、表面的にどれだけいい関わり方だとしても子どもも大人も追い込むことになる。「ひとりの人として敬意を払いコントロールしようとしない」を前提にしようよ。
子どもの気持ちが「知られたら怒られる」から「相談したら解決してくれる」に変わるための関わりを積み重ねる。「失敗したら責められる」から「失敗しても助けてくれる」に変えていく。どちらも、その子の努力で変わるのではなく、こちらの関わり方次第で変わるもの。味方だと知ってもらえるように。
紙クルクルは認知能力で、寿司を諦めない力や工夫して解決する力が非認知能力と言われていて、この非認知能力は幼少期からひとりの人として大切にされながら育まれていきます。と、むりやり保育の話に繋げてみる
お寿司なので手で食べる選択もありますが、僕はアレルギー体質で肌も弱いので、肌からのアレルゲン吸収による食物アレルギー発症を予防するために、基本的に手で食物を触らないように(触ったらすぐに洗うように)しています!ポテチも箸です!
寿司買って新幹線に乗り込んでから箸もらうの忘れたことに気づいて絶望してたけど、常備していたA4用紙と幼少期に培った技術を駆使してどうにか助かった。糊付けは一粒のシャリ。これぞ生きる力。
「悪いことしたら謝る」の前に、僕が気をつけたいこと。
つい「できてないこと」に目を向けてしまう時に、ぼくが気をつけたいこと。 支援の基本にして奥義とも言える大事な視点。いつも忘れないように。
子どもの権利っていうのは「保育や教育の考え方の一つ」ではなく「保育や教育の土台となるもの」。だから「子どもの権利”も“大切にする方法」ではなく、「子どもの権利”を“大切にする方法」を目指したい。保育や教育はその子どもの権利を保障するためにある数あるものの一つだからね。
あえてはっきり断言しますが、専門性に欠ける保育士も倫理観を疑うような保育士も現場には多くいます。それもいち従業員に限らず、運営の主幹になっていたり社会的に信頼される立場の人もです。これはその保育士一人の問題ではなく、業界に長く蔓延る大きな問題、課題であると僕は言い続けてきました。