実際にやられた話だけど。 『ラノベ作家は作品を本として出版までこぎつけないと一円にもなりませんから、先に別人が組んだプロットを渡されてそれに従い書く事の多いアニメ等のライターさんよりも、プロットを素早く、何種類も組むのは、慣れていますし、早いです』 とインタビューで語った際に。
ツイッターであれば、仮に純然たるあらすじで2から3ツイート、そこに追加する面白いポイントで3から5ツイートのレベル(つまり原稿用紙二枚とかその辺、ラノベの新人賞の梗概と同じくらい)位を使って『こんなに面白いですよ』と伝えられるかどうか。
そういえば昔、内弟子というか教え子で、某ぎゃるげのアンソロジーの仕事を振った子がいたのですが。 (複数のヒロインのショートエピソードを小説としてそれぞれ書く) その子は何を思ったが自分の担当のヒロインを冒頭数行で退出させて……
なろう系の作家が誤字脱字も直すのを嫌がる、という話は何度か聞いた事があるけど、それはそれとして、私は校正者から「この一文は『物理的に』おかしいので直しておいた」と提案ではなく、小説の一文にダメ出しを食らった事があります。 しかも見当違いの指摘。 勿論、校正原稿で元に戻しましたが。
しかし反ワクチンの極端な人達が唱える諸々(電波とか遺伝子改造とか)がぶっ飛び過ぎていて、迂闊に創作物で使うと『リアリティが無い』とか詰られるレベルなの、本当に現実のレベルが測れなくてしんどくなってきた。(あくまで物語創る者としての個人的感想です)
コレは構造分解の他に『読み手が面白いと思うポイント』について理解していて、そこをピックアップして語れるかどうかでもある訳です。 キャラが魅力なら、どうそのキャラが魅力なのか、短く端的に伝えねばならない。
その抜けも多層的で、確かに生徒さんがいきなり書けと言われて書けるものではないが、逆にその抜けを指摘していくと、『冒頭で何を提示しないと読者は小説の世界に入れないのか』がわかる。
シューティングゲームでも、頭にムービー入るやつとか、それ見る前と見た後だと、プレイヤーにどんな認識の変化が有った? エースコンバットは? パンツァードラグーンは?
生徒さんから「見てほしい」と提出された原稿を読むなど。 ううん……語彙はある、色々と考えて設定もしてある、のはいいが。 「読み手」の事は全くといってよい位に想定されてない……きつい言い方をすれば「独りよがり」。 プロローグを置いているが、プロローグとしての機能が全く感じられない……
要するに『授業で教えたはずの作品の見方を普段からしてるかどうか』の確認だった訳ですが、コレは正直、私も良くなかったというか、一度や二度教えただけでそれを『普段からの癖』にできる様な生徒は、私に教わるまでもないう才能の持ち主とも言える訳で。
編集者が作家のSNSフォロワーで本を出す出さない決める云々だが。 ラノベに限って言えばそりゃそうなるだろうとは思う。「なろうの高P作品を漁って右から左に書籍化する」事だけしかしてこなかった(それこそが今風の編集仕事だと思っている)編集者は、純然たる数字が無ければ何も判断できないからね。
前にも書いたですけども。 ――例えば「メガネっ娘」と物書きがキャラ設定を造った時は、そのキャラが「メガネっ娘」である必然性と同時に、「メガネっ娘だから出来る演出やエピソード」をほぼ無意識の内に踏まえてます。>>
誰の言葉だっけな。 『誰も貴方のようには書かない』 意識的にパクるのは論外としても、ネタが被ろうが物語構造が同じだろうが、今、その人がきちんと自分で考えて書いたものなら、被った作品と同じモノになる可能性は非常に少ないですよ。 twitter.com/benikake_soran…
まぁ細かい話に見えるかもしれないが、その辺も押さえて書くのが小説の『演出』でありそれができるのが『本職』の物書きである以上は、その辺、『自分が出来ていない』自覚を持ってもらって、学んでもらうしかない、という話になる。 おそらくその先生もその辺を狙ってやらせてる。 無知の知というか。
これ、ラノベとかの専門学校業界にも当て嵌まる話だったりもする。 「とにかく現実は教えないでください」「褒めるだけで間違いを指摘しないでください」(そうしないと来期の授業料払わずに辞めちゃうから)的な事を言われた事がある。 twitter.com/dreaming_wave/…
前に書いたけど、亡くなった声優関係の知り合いが昔、専門学校の生徒さんに言われた『ガンダムってアニメ化してたんですね!』もすごいと思う。良いとか悪いとかじゃなくてこう、世代間ギャップというか。
文章力の話。 漫画であれば絵、コマ割り、フキダシの台詞、その他、といった情報をパラレルに(面)で伝えていく訳ですが。 アニメやゲームであれば、動画として動きだの、音声だの、何らかの動的演出もこれに加わる訳ですが。 小説の場合は、全て線状に並べられた文字で伝えていく訳ですよね。
以前ある先輩作家から言われた言葉。 『いつまでも貴方が諦めなければ、いつか誰かが貴方を、諦める』 商業で仕事する物書きが自分の満足を最優先して締め切り破りまくる場合、まぁそうなりますわな。 ごくごく一部の、『その人の作品なら永遠に待てる』という信者さんが沢山いる人でもなければ。
本当にこれは常に思う。 宝くじは買わないと当たらない。 創作を宝くじに喩えるとは何事かと怒る人も居るだろうが、完成前からぜったい確実に傑作、名作になる保証のある作品などないと言うか、作者の手を離れてお客さんに見てもらってからでないと、創作物は完成しない。 表現なんだから。
随分前の事だけど、某編集部が全国のチェーン店系書店に人をやって、出口調査をしたところ、お客さんの中には買ったばかりの本の著者名を尋ねられても言えない人が結構な割合でいたんだとか。 『読者にとって作品名や主人公の名前より、作者名は覚える優先度が低いと推察できます』だそうで。〉RT
スレッタの一人称で書かれているのは良いとして、このせいでまずスレッタの外見イメージが提示されない。一人称の場合は鏡に映った自分を描写したりするが、それも無い(アニメにそういう表現が無いので当然だが) ここでもう完全第三者視点のアニメと、スレッタの一人称視点の齟齬が出る。
まぁ何にしてもこういう作品の見方をし始めると、純粋に楽しめなくなる場合があるので、その辺は覚悟せんといかんと思いますが。 なので私はコレができる事が創作者の絶対条件だとは言いません。 ただ、仕事で創作をする場合は、この辺の技能を身につけて、沢山の作品を見て、分解して、
最初のマイナスを200とかに設定すると、高感度上昇の幅は限界があるから、プラスにならずにマイナスのままになるという変な結果に。 技術というのはその原理的な部分を理解せずにアレンジして使うと、うまくいかないこともありますよ、と。
個人的には『アレが嫌い』はあって当然と思う。個人の趣味嗜好なんだから。〉RT だけどそれに汎用性というか公的保証というか、そういうのをつけて『他人にも嫌いと言わせたい』と思うあまりに『邪道』だとか『低俗』とか万人に通じる絶対基準があるかのように主張し始めると、誰にとっても地獄。
いずれにせよ。 わがままを言うだの、支離滅裂なことする、だの、依頼内容をガン無視する、だの、そういうのをしないと個性が出ないと思ってるなら、大変な間違いだなと私は思います。 個性ってきちんと仕事してても勝手ににじみ出るもんではないのかなと。