そういえば昔、学校の先生から、授業のランニングで「楽しそうに走っていた」ことを叱られて謝罪したことがあるけど、「辛くなければならない」という指導は運動の楽しさや運動習慣の大切さを学ぶ障壁になるのではないかと、医療・健康に関わる今なら思う。
「後悔しないように」って大事だけど、時には「後悔してもいい」って発信もあっていいと思っている。いろんなところで見る「後悔しないように」に強すぎる圧迫を感じることがある。 後悔から学べるものもあるし、そもそも後悔のない人生なんてない。
ちなみに「がん情報サービス」とは、 「がんについて知りたければググる前にまずアクセスしてください」 と専門家が口を揃える、がん情報サイトの最高峰です。 ブックマーク必須のサイトの一つです。 ganjoho.jp/public/index.h…
本当に当たり前すぎる話なのだが、他人の趣味や嗜好を馬鹿にせず、「好きな理由」に興味を持ってくれる、そういう人たちに囲まれている環境というのは最も幸せだと思う。 「好きなことを好きだとストレスゼロで言える場所」が最も心地良い。
医療デマには要注意、ということで、医療に関して正確な情報を仕入れるための一つの手段として自分のサイトで医療情報サイトリンク集を作っています。 ぜひご参照くださいませ。 keiyouwhite.com/guideline-for-…
とはいえSNS上のデマの中には、真実をうまく織り交ぜ、デマと見抜きにくいような厄介な類が含まれるのもまた事実。特に不安が強い時は判断力が落ち、賢い人でもあっさり騙される。 「自分は勉強しているから大丈夫」という過信は禁物、というのも大事な考え方。
インスタ等で見るトンデモ健康法の類は、小中学校で学んだ知識があれば瞬時にデマだと気づけるものも多い。むしろあまりに容易に気付けるために、勉強した人はそれが「勉強のおかげ」だと思わない。無意識に身の安全が守られている。これが義務教育の効果なのだろうと思う。
仕事が抜群にできる人とか、私生活がすごく満たされている人とかが、わざわざ他人に難癖をつける姿はまず見ないなあとよく思う。 翻って思うに、他人に色々と難癖をつける人は、他人を改めたいのではなく、思い通りにならない自分への不満やわだかまりを他人にぶつけているのかもしれない。
日々学び続けないと学問の進歩には置いていかれるのだが、学ぶ必要性はまず学んでみないと実感できず、ひとまず学んで不足を知ることで初めて「学ばねばならないという切迫」が生まれ、学びのサイクルが回り始める。 一方、ひとたびこのサイクルを止めると、再び回し始めるのに割と労力が必要になる。
本日4月9日は「子宮の日」ということで、みんパピ(@minpapiHPV)さんから特別動画の公開、スペシャルトークライブなど数々のイベントが企画されています。 そして今朝の朝日新聞にはこの大きな広告が掲載。 今日はこのタグが盛り上がるといいなと思います。 #子宮頸がんは予防できる
数ある事例や証拠の中から自分の主張に有利なものだけを並び立てて自らの正しさを証明しようとすることを「チェリーピッキング」と呼ぶけれど、わざわざ名前までついているのは誰もがこの誤りに陥りやすいからだし、誤りに陥ったと気づいた時いかにすぐ軌道修正できるかの方が大事なのだと思う。
何度でも書くのだけど、”がん”というのは全く異なる多くの病気の「総称」に過ぎないし、たとえ同じ種類のがんでも進行度や体の状態は全く異なる上に、取り巻く環境、得られるサポート、あらゆる社会的背景によって「やれること」は全く異なってくる、というのは大事なこと。
「スマホ脳」の中で著者は、FBやインスタでは「写真に連続砲撃を受ける」「『よい人生とはこうあるべきだ』という基準が手の届かない位置に設定されてしまい、その結果、自分は最下層にいると感じる」として「あらゆる次元で常にお互いを比べ合っている世界」が自信をなくさせると警鐘を鳴らしている。
これは重要なアドバイスで、ぜひ知っておいていただきたいです。 近年Googleのアルゴリズムの改善によって、正式病名であれば正確な情報が上位に表示されやすいですね。 twitter.com/SatoruO/status…
原稿がまとまらず苦労していたのに一晩寝ると嘘のようにスムーズに進んで一気に完成することがよくある。 この経験から思うに、悩みや迷いで頭の中が乱雑な時は、とりあえず考えるのをやめて寝るのが得策だということ。これは間違いないはず。
コロナ禍において摘発された数々の「科学的根拠のない宣伝」と、それに伴う健康被害などについての報告をブログでまとめました。 自らの身を守るためには、科学に強くなり「情報弱者にならないこと」が大切なのだと思います。 keiyouwhite.com/corona-ad
たとえば写真や動画の画質が「標準」「高画質」などとされるように、日本語の「標準」は英語のstandardのニュアンスを必ずしも的確に表現していないと思われますし、実際誤解のもとになっています。 「標準治療」は、現時点で最も高い効果が期待される治療のことです。 twitter.com/SatoruO/status…
極論だけど、お互いのことを「知りすぎる」くらいによく知って、それでもなお良好な関係を維持できる人は世の中に1人か2人くらいしかいないのではないかと思うし、そのくらいの関係性が"たくさん"必要なのか、というとそうでもないと思う。
大人になってからできた友達と長く親しくできる気がするのは、おそらくお互いのことを「知りすぎない」からではないかと思う。 昔は「お互いをよく知っていること」が間違いなく親密さの象徴に思えたけど、実は大部分の人とは「知りすぎない方が良好な関係を維持できる」のだと思う。
何事においても「全く知らない人」より「中途半端に知っている人」の方が大きな誤解をしやすいように思う。 全く知らないなら詳しい誰かに頼るしかない一方で、中途半端に知っていると「手持ちの材料」を使って結論らしきものを自力で導き出せてしまう。
家族とはあんまり喧嘩しない方がいいよなあといつも思っていて。次会った時に謝ろうと思っても「次」はもうないかもしれないし、その時の後悔は計り知れない。 人の命は全く予期しない形で突然にして失われる。決して少なくない頻度で。この仕事をしているとよく分かる。
理不尽な批判にはしっかり反論する。これ間違いなく大事なんですが、「言いたいヤツには言わせておけ」を適宜発動するのも大事なんですよね。自分の時間とメンタルを守るためにも。
週刊誌等でよく見る"極端な"健康情報。 ①単純化された極論 「〜すれば病気が治る」 ②過度に負担の少ない解決策 「〜するだけでやせる」 ③現代医学の否定 「医者や薬は不要」 ④リスクの誇張 「〜薬は危険、飲むな」 ⑤一般論を覆す新情報 「実は〜検診を受けてはいけない」 keiyouwhite.com/magazine
趣味も、「楽しむ技術」みたいなものはやっぱり「習得する」必要があって、身体機能の落ちた老後だとそのコストはぐっと大きくなる。 心身ともに柔軟な若い頃こそ、あれこれかじって一人でできる趣味を増やせるチャンスだと思う。