大須賀先生の記事、大事な内容です。 抗がん剤にまつわるデマは本当に多い。 元気な時なら「そんなはずないだろう」と笑えるような話でも、自分や家族が当事者になると冷静な判断は難しいものです。 だからこそ、日頃からこうした発信に触れておくことは大切です。 news.yahoo.co.jp/byline/osukasa…
「科学的根拠がどのくらいあるか」を示すエビデンスレベルという言葉がありますが、最下層に位置するのは「専門家の意見」です。 たとえ専門家の発言でも「何を根拠にしているか」は大切で、いつも疑いの目を向け、複数の専門家の意見を知る必要がある。 専門家を取材するメディアも同じです。
学校教育に関して「〇〇は社会に出たら一切使わないから不要」のような論はよく聞く。 確かに目に見える実用性も大切だけど、むしろその「実用性」が自覚できないほど自分の中に深く潜り込み、血肉となって同化した成果こそ、人生で様々な困難に直面したとき無意識下で生かされるのだと思う。
忽那先生の記事。 今となっては効果の定かでない対策で生活を締め付けるのはもうやめましょうというご提言です。 ビュッフェやレジの店員さんの手袋、エレベーターのボタンの抗菌シート、ハンドドライヤーの使用制限、トイレのフタ問題などを指摘してくださっています。 news.yahoo.co.jp/byline/kutsuna…
患者さんの病歴や病状のような個人情報は、原則ご本人、および(同意を得た上で)ご家族にしか伝えません。 知人や職場等の関係者、その方々を取材する報道機関が手にする情報は、伝言ゲームのように確度が落ちています。 他人の病気に関する情報は「そういうものだ」と思っておく方がいいと思います。
80代や90代の方々からよく、同級生や友達が次々この世を去っていくという話を聞く。そんな中で生き生きしているのは「1人でできる趣味」を豊富に持っている人。誰にも頼らず自分を楽しませられる。 体力と知力があるうちに趣味を見つけておくのはとても大事。若いほど新しいことを始める労力は少ない。
最近読んだ「認知症世界の歩き方」は素晴らしくいい本だったが、この中に、 『認知症のある方が生活に困難を抱えている原因の大半がデザインにある』 という言葉がある。 読めば「デザイン」の意味が分かる。 こんな風に、予想もつかないところで点と点が線になって繋がることがあり、読書は面白い。
そんな父は決まって私に「おじいちゃんはこの比じゃないくらい本を読んでいるよ」と繰り返した。確かに、教師だった祖父の自宅は居住空間のほとんどが本で埋め尽くされていた。 知識とはいくら得たところで限界にたどり着くことは決してないのだと、幼心に思い知ったものである。
テレビや週刊誌などで非科学的な、不用意に不安を煽る発信がなされる(ことがある)理由について、「それを望む人が多いから」という市場の原理に思いを巡らせるとひたすら残念に思うし、「誰も望まない」ようになるまでなくならないのだろうなと思う。
少数派の偏った意見の持ち主が多数派によって批判されることで、むしろ自分の信念をより強くし、ますます極端な方向に先鋭化していく姿を多く見てきた。 本人は全く気づいていないし、周囲の抑止はガソリンになる。もはや止める術はない。恐ろしい。自戒を込めて書いておく。
抗がん剤の副作用というと「脱毛」と「吐き気」を思い浮かべる方が多いのですが、これはドラマや小説の影響も大きいのではと思います。 今や抗がん剤の種類は膨大で、種類によって副作用はさまざまです。脱毛や吐き気の副作用が非常に少ないものもあるし、他の副作用リスクが大きなものもあります。 twitter.com/otsukaman/stat…
こちらの本です。いくつかシリーズ物になっています。 自分もこういう子供向けの本を作りたい。いや、作る。 amzn.to/2Nf5sxT
以前ある歴史家の先生が言っていたこと。 専門家として優れた人ほど専門外の領域には安易に踏み込まないし、まだ不確かなことを決して「断言」しないものだが、そうすると「専門家が言わないなら私が言う」という(善意の)非専門家が現れるので悩ましいと。 難しい問題だと思った。
感染症の数理モデルの専門家、西浦先生の解説、とても分かりやすいです。 他人との接触を80%減らすことができれば(青線)、感染者数の減少が期待できる。今までのような20%減(緑点線)だとその効果は非常に薄い。 みんなで何とかしたい。 twitter.com/ClusterJapan/s…
医師は口癖のようによく「様子を見ましょう」と言いますが、その時はこういうケースが多いと思います。 「経過観察」とは、「何もしない」ではなく、「全く治療介入せずに様子を見なくてはならない」という意味なんですね。 medical.jiji.com/topics/616
「今後」と書いたのは、コロナに限らず、いつ自分や自分の家族が病気に直面し、不安な中で情報を探し求めることになるか分からないからです。 これから自分や家族に降りかかるかもしれない危機に、日頃から備えておくことは重要だと思っています。 もちろん医療者である我々もです。
医療関係でよく週刊誌の取材を受けるのですが(表紙がカラフルで割と「煽り」系の見出しが並ぶタイプ)失礼な言い方ですが、たいてい担当の方の知識は真っ当で準備も完璧なので、とてもスムーズに話が進みます。 で、記事の完成度も高い。でも他の記事はちょっとオススメできないものだったりします。
もちろん自分はSNSが好きだし、自分の人生に「良い影響」を作り出せるツールだと思っている。だからこそ距離感を大切にしている。SNSは自分の人生においてとても大切だけど、SNSが人生ではない。
いつも言っているのだが、いわゆる代替療法がダメだという意味ではない。ただ、科学的根拠のある治療より、全く根拠のない治療を優先し、大金を使って家計を逼迫させたり、無用な食事制限や断食をしたりする方には、そのお金と時間を可能な限り好きなことに使い、治療に備えてほしいと切に思う。
一見すると説得力のある批判の中にも、知識不足が垣間見えるものは多い。 「〇〇してから言え!」(→もうやってる) 「〇〇もきちんと考慮しろ!」(→もうしてる) 「じゃあちゃんと報告しろ!」(→してる) みたいなケースは割とよくある。 怒る前にまず冷静に情報収集、ってとても大事。
例えばお腹が痛い時に「そこにある臓器の不調かも」と考えるのは今では自然ですが、まるで「機械の一部分の故障」のごとく病気を捉える発想は歴史上かなり新しく、18世紀後半のモルガーニの提唱以後徐々に浸透しました。長らく人体は神秘的な存在で「体液の不均衡」が病気の原因とされていたためです。
日々学び続けないと学問の進歩には置いていかれるのだが、学ぶ必要性はまず学んでみないと実感できず、ひとまず学んで不足を知ることで初めて「学ばねばならないという切迫」が生まれ、学びのサイクルが回り始める。 一方、ひとたびこのサイクルを止めると、再び回し始めるのに割と労力が必要になる。
科学の領域で誰かの発言が批判される時、それは「誤りを指摘される場合」と、「正しいか誤りかまだ分からないから断言すべきでないと指摘される場合」の両パターンありますが、そういう考え方に慣れていない人は、後者のケースでのちに「ほら私が正しかったじゃないか」と反論しがちな気がします。
聖路加国際病院感染管理室坂本史衣さんの記事です。 「風通しがよく、人と人との距離が腕の長さ以上に離れていて、人がぺちゃくちゃしゃべっていない場所であれば比較的安全」 「もちろん、そのような場所に行く際にはCOVID-19の感染経路を絶つための対策を行うことが大事」 news.yahoo.co.jp/byline/sakamot…