医学の世界では、この1世紀余りの間に本当に多くの事実が明らかになりましたが、「血液には型がある」という事実もその一つです。 ちなみに、医学的には自分の血液型を知っている必要はなく、最近は我が子の血液型を知らない人も多いと思いますが、ご心配はいりません。 diamond.jp/articles/-/280…
今回、様々な学会が盛んに情報発信しています。非常に貴重な情報です。 学会の名で発信する以上、多くの医師が意見を出し合い、細かな部分まで神経をすり減らして作っているはずです。それほどの発信が「公式サイトで公開」だとやはりもったいない。 我々は少しでもその伝達役を担えたらと思います。 twitter.com/ent_univ_/stat…
Twitterなんかやって何が面白いんだと言われることは未だにあるのだが、今や学会公式ですらTwitterを駆使し、有益な情報交換を行う時代。もう随分前からTwitterは「やるかやらないか」ではなく、「どのようにやるか」のフェーズに入っていると感じる。
幼い頃、父の書斎の巨大な本棚には海外の古典から最新の新書まで途方もない数の蔵書があり、巻末に一つ一つ読了した日付と感想メモが書かれていた。 父はとにかく物知りだったから、「豊富な知識を身につけるには本をたくさん読んだ方がいいんだろうな」と幼少期に漠然と思えたのは良かったと思う。
時事メディカル連載 週刊誌やネット記事などでよく見る、「この薬は飲んではいけない!」を信じて必要な薬をやめてしまい、病気を悪化させてしまう方がいます。 本来、薬をやめたり中断したりするには細心の注意が必要です。 medical.jiji.com/topics/2109
何かに夢中になってしまって他のことに手がつかず、やるべき仕事が進まない、というのは悩ましいことではあるのだが、「我を忘れられる」のは自分の幸福度を高める一つの能力だと思うし、最高に幸せなことだと思う。
『今後、重症の感染者数が増加すると、人工呼吸器などが埋まってしまい、「本来、日本の医療水準であれば救えたはずの命が救えなくなる」』 →最も防がねばならないのはこの事態ですね。 「今、私たちにできる5つのこと」が書かれた記事です。 何とかみんなで気をつけたい。 buzzfeed.com/jp/sumirekotom…
「最初から何かができる人」は「全然できなかった頃」がないので、「できない気持ち」が分かりにくい。 モチベーションを維持しやすいので努力を厭わず、ゆえに自分を努力家と見なす傾向があり(実際「努力家」ではある)、「私は最初は全然できなかった」とすら思っている。 これが時に不和を生む。
がん手術の延期や治療体制の縮小がやむを得ず行われる中、やはり懸念されるのは、何年も後に振り返って初めて「あの頃がんにかかった人たちの予後が他の時期と比べて悪かった」と分かるかもしれないということ。 医療の逼迫は目立たない形で命を縮めうる。それが怖い。 asahi.com/articles/ASNCW…
努力や用心を重ねても防げない不運や不幸、大きな失敗がいつ自分の身に降りかかるか分からないので、いつも心が「受け身」を取れるようにしておくのは大切だと思っている。 人生には「よけられない攻撃」というのがあるから、ダメージはもらう前提で、それをいかに小さくするかを考えておくのも大切。
実はお腹の中には臓器がぎっしり詰まっているわけではなく、スペースに余裕があります。 腸はある程度自由に動けるので、逆立ちすると腸は頭側にドサっと移動しています。意外に知られていない事実です。 diamond.jp/articles/-/295…
「一方の言い分だけ聞いても正しい判断にはたどり着けない」というのは誰もが何度も経験することだが、「自分が信じることの正しさを証明するために一方の言い分のみを広める人」がいることも意識しておく必要があると思う。 悪気なく、むしろ正義感に駆られてそうする人もいるから、余計にそう思う。
「無治療経過観察」という医療行為の重要性はあまり知られていない。例えば自然に治る(かもしれない)病気に無理に薬を使ってしまうと「薬を使わなかったらどうなったか」が永久に分からないし、状態が悪化した時、病気そのもののせいなのか薬の副作用のせいなのかが分からないという問題もあります。
週刊誌等でよく見る"極端な"健康情報。 ①単純化された極論 「〜すれば病気が治る」 ②過度に負担の少ない解決策 「〜するだけでやせる」 ③現代医学の否定 「医者や薬は不要」 ④リスクの誇張 「〜薬は危険、飲むな」 ⑤一般論を覆す新情報 「実は〜検診を受けてはいけない」 keiyouwhite.com/magazine
教えるという行為はとても難しく、「1」教えるには「10」知っている必要があるし、「分かりやすく教える」だと「100」くらい知っていないと難しいかもしれない。 教わる側には同じ「1」に見えても、背景知識の豊富さによって記憶の定着は違うと思う。
中学の理科の教科書は大人になってから見ても本当に素晴らしくて、誇張抜きに、将来トンデモ科学に引っかかるリスクを下げてくれると思う。
医療に関して「私は勉強したので詳しいです。こういうことですよね?」と言う人の認識に間違いがあった時、訂正するのは少し難しい。 一方で「あまり詳しくないんですが」という人の方が実際には詳しかったりする。ある程度「詳しい」からこそ自分の「詳しくなさ」を知ることができるのかもしれない。
『ビワの種について「食べるとがんに効果がある」という情報がSNSなどで広がっています』 『ビワの種には有害物質が含まれ、粉末にした食品などを多く摂取すると健康を害するおそれがあるとして食べないよう呼びかけ』 医療デマは病気の不安に付け込んできます。平時から有事に備えておくことが大切。 twitter.com/nhk_seikatsu/s…
Twitterに限った話ではないが、時々とんでもない角度から議論に参入して周囲を困惑させたり誰かを攻撃し始めたりする人がいて、真面目な人ほどその発言の中に何らかの洞察とか見識を探そうとしがちだけど、実際には「とりあえず引っかき回したい」以外に何も動機がないケースも割とあるように思う。
講演している最中に「うんうん」と頷いてくれる聴衆の方、ものすごくありがたいんです。こちらも安心して話せるし、何ならその方に向けて話しています。たぶん人前で話す機会の多い方は同意してくださると思います。 なので自分も聴衆として参加する時は、頷くなどして動的に聞くようにしています。
Twitterで毎日紹介されるように、ネット上には良質な医療コンテンツは結構多くて、それらを定期的に読めば大きな誤解に陥るリスクは低いのですが、一定数いる「分かりたくない人」「納得したくない人」には、どんなに分かりやすい発信でも決して届かないというジレンマがあるんですよね。
誰かを激しく叱責し、その相手がひどく落ち込んでしまった時に「あいつは心が弱いだけだ」とさらなる追い討ちをかける人がいるけど、ダメージの受け方に個人差があるとは言え、優先順位としては「自分の叱り方が妥当だったかを振り返ること」が先だと思う。
よくイライラして周囲の空気をピリピリさせる人が、「自分は感情の起伏を表に出さないようにしている」と言うのを聞いて驚いたことがある。 私も短気な自分の性格が好きではないが、少なくともそれを自覚はしていて、周りに迷惑をかけないよう注意はできるからまだ良い方かなと我ながら思っている。
専門家は、非専門家の提言が時に重要な解決の糸口になることもあるため謙虚に耳を傾ける方がいいし、非専門家は、自分が思いついた「名案」はたいてい専門家はとうに思いついている(その上で採用していない)可能性が高いと考える方がいいと思う。
すぐに怒りの感情を爆発させて誰かを怒鳴ってしまう人は、まず第一に「大きな声を出さないようにする」だけでずいぶん実害が少なくなるのではないかと思っている。 情動そのものをコントロールするのは難しいので、まずは声のボリュームから、という。