哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(リツイート順)

@dayukoume 言語は何処から生じたのだろう。ミュラーはドンドン説を唱え、自然界の音にその起源を見出した他、エイヤコーラ説では、人々の掛け声が言語と化したとされる。小梅氏はワールドカップ開幕に際し、スルスル(ドンドン説)や、てやんでい(エイヤコーラ説)等を検証し、世界の言語の普遍的起源を探ったのだ。
パプセルをカプセルの誤字と解すると、宇宙ではやぶさ2が収集した成果が「私」であることがわかる。ルネサンス思想の典型として、我々人間を「宇宙」に対応する「小宇宙(ミクロコスモス)」と捉える思想があった。この宇宙論の視座に立つ小梅氏は、はやぶさ2の収集物たる宇宙の一部に「私」を見るのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
アーレントの『人間の条件』を踏まえると、「活動」とは、人間のコミュニケーション行為のことに他ならない。人間の条件の一つである「活動」が困難になるコロナ禍。小梅氏は、「活動」が見え難くなっている現代の情勢を踏まえ、これからの「活動」を考えるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
太陽フレアは、太陽の表面の巨大な爆発現象とされるが、それが余りにも莫大なものであった時、我々に一体何が出来るのだろう。地球を呑み込む巨大な太陽フレアを目前に、人類はただ「占い」に縋るしかない。しかし、占いの結果がどうであれ、太陽フレアは無慈悲に我々を呑み込んでしまうのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume そもそも、小梅氏の父は既に逝去しているのでここでのパパは小梅氏の父では無い。では、何者か。実は、“パパ”は、キリスト教的な「父なる神」を指しているのだ。小梅氏は、自身の行動はパパ(神)に強請られ、決定してしまう!と神学的決定論を肯定しつつも、その原理を畜生!と非難するのだ。挑戦作。
どこからが実力で、どこまでが影響によるものなのか。「花粉」といった、特異なものからの影響がある場合は、本来の実力でないのだろうか。小梅氏は、「本来の実力」の存在を想定せず、我々にはあらゆる存在との影響関係が常にあるのだから、花粉の影響下であれ、それは「実力」であると主張したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
厳密な「南」は存在するのだろうか。南からほんの少しでも西に向いていたら、それは厳密な意味での「南」ではない。このような意味で小梅氏は、「南」という概念をイデア的概念とし、我々が「南」と呼ぶものは厳密には「南南南…西」であったり、「南南南…東」であったりすると述べたのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 何故、チョコを貰えなかったのだろう。バレンタインでは通常、女性が男性に🍫を渡す贈答関係が結ばれるが、考えてみると、性別超越者たる小梅氏はこの男女二元的カテゴリーに属さない。クィア理論的視座から疑義を呈した小梅氏は、贈答関係が女→男に定式化されるバレンタインを大胆にも批判したのだ。
@dayukoume レヴィナスは、愛撫を分析し、それを食人の疑似行為と看做しながらも、他者の“他者性”により愛撫は食人ではなく“愛撫”となるとした。さて、先日カニバリズム(食人)に目覚めた小梅氏にとって接吻は愛撫ではなく食人行為そのものだ。🎡の頂上で小梅氏は、接吻の代わりに他者を殺害し食したのだ。猟奇作。
小梅氏のお笑いのネタよりも面白いと思います。是非、お笑い芸人を目指してはいかがでしょうか。
「自由」とは如何なるものか。サルトルは「人間は自由の刑に処されている…人間は自分のなすこと一切について責任がある」としている。そう、「自由」には常に責任が伴うのだ。「自由」の意味を履き違えた若者は、ひなあられとなってしまい、ひなあられになることの責任を考えず、死んでしまったのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 自販機の飲料は場所により値段が異なる。これは、事物の価値はその場所により、相対的に変わり得る事を経済的側面から示していると言える。事物の価値を価格に還元し、場所により変えるその恣意性に怒った小梅氏は、モノの価値は場所に拠らぬ普遍的なものなのだ!と普遍主義の立場から激怒したのだ。
我々は自身の身体を「可食性のあるもの」としては通常捉えない。「ジョーズ」が何故我々を恐怖に至らしめるか…それは、我々の身体を生々しい「肉」に変えてしまうからだ。人間-鹿の関係が被捕食者-捕食者の関係になった時、我々に出来る事は畜生と生々しく叫ぶ事だけなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
チャペックによる造語「ロボット」の語源はチェコ語で労働を意味する言葉である。かつて、労働者の代理表象であったロボット。今の我々は罪悪感なしに当然のようにルンバをこき使うが、その時の振る舞いはまさに醜悪な資本家そのものだ。小梅氏はルンバによる反逆をプロレタリア文学として著したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
小梅氏の哲学エッセイである『まいチク』が書籍でなく、暦として上梓された事態には、恐らく小梅氏から我々への、日々を哲学して欲しいという願いが籠められているのであろう。マクルーハンも「メディアはメッセージである」と述べたが、暦という“メディア”を通じ、日々を哲学しては如何だろうか。 twitter.com/owarai_natalie…
「コウメ太夫」を「派手な着物」で置き換えるような修辞法は換喩(メトニミー)である。最後に「ノーギャラチクショー!」と述べているように、小梅氏にとって、派手な着物を着た人物は全員「コウメ太夫」ということになる。「コウメ太夫」は、メトニミーを通じ、個を超え増殖し続けていくのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
我々人間が死へと向かっていく存在であることに自覚的になれと説いたのはハイデガーだった。そして小梅氏は、「自らへ向かってくる死」にも自覚的になる。そうめんが喉に詰まる可能性を見出した小梅氏は、流れてくるそうめんを死神に例え、日常に潜む死のリスクを避けるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 地球が吹っ飛ぶ爆弾…これは核爆弾の事を指している。冷戦は雪解け、核戦争の危機は去ったかのように見えたが、ほんの気まぐれで地球が吹っ飛ぶ事に変わりは無い。核兵器を作り出した人間の身体を比喩的に「スイッチ」とした小梅氏は、現代は危ういバランスの上成り立っているのだと警鐘を鳴らすのだ。
私事で大変申し訳ないのですが、このようなダイレクトメッセージが時に送られてきます。小梅氏のツイート並みに難解で大変面白いです。 ダイレクトメッセージは解放していますが、全てのメッセージに対し返答する事は出来ないという事を予めご了承ください。
@dayukoume 視姦を行い、客体の裸体に対し、「まなざし」を刻印するのび太さん。客体へのエロティックな欲動を満たす為の感覚は当然、視覚のみに止まらぬ。フロイト的エスからの「タッチタッチ」という、触覚から欲望を満たさんとする呼びかけに対し、超自我による制御を失ったのび太さんは遂に畜生に堕ちたのだ。
F.フクヤマは、『歴史の終焉』において、民主主義と自由経済が勝利し、社会制度の発展が終結するという状況を「歴史の終焉」とした。フクヤマの議論は、ヘーゲル的な弁証法の図式に則っているが、歴史が終焉するとその図式は更新されなくなる。(続) twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume (承前)…人々は必然的に死のプロセスを辿る事が示唆されており、ハイデガー哲学の影響が垣間見える。そして、「ゾンビ」では、ヒトが死した後、死人が「他者の心」の中で“生きる”のだと述べ、人間のゾンビ性(不死性)を唱えたアーレントの議論を発展させたのだ。挑戦作。
@dayukoume 『もののけ姫』を視聴していた小梅氏は、アシタカの台詞を聞き、疑問符を浮かべた。─我々は一体何処から来たのだろうか─。“母の胎内”というのは確かに一つの解答ではあるが、では、我々は“生”を得る以前、一体どこに居たのだろう。“どこでもない“のであれば、何故我々は生きているのだろうか。傑作。
@dayukoume 何故、燃えたのだろう。スピヴァグは『サバルタンは語る事ができるか』にて、「サティー」を分析した。これは寡婦が焼身自殺をするヒンドゥーの儀礼だが、従属的社会集団たるサバルタンらの行為を理解する事がプリキュアの第一条件と考えた小梅氏は、当事者視点からサティーを行い焼死したのだ。遺作。
@dayukoume 「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。」 ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』にてこう述べた。 愛(エロース)は、穏やかな、何気ない日常に一滴の毒薬を落とす…日常を送りながらも胸を傷ませた小梅氏は、恋愛のディスクールを綴り、その狂気を描いてみせたのだ。