哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(リツイート順)

@dayukoume 主体がコブラである事は上の句で既に示されたにも関わらず、下の句では「コブラであった」事実が驚嘆を伴い述懐される。小梅氏は、「吉岡里帆性」をコブラに付与していた。ハイデガー的〈als構造〉の元、コブラを吉岡里帆〈として〉了解した小梅氏だが、噛まれた際にその誤謬に気付いたのだ。駄作。
異類婚姻譚を描いた作品。現代の日本人は、多くの場合人間と動物を分たれたものとして思考するが、昔話の世界ではごくごく自然に、動物は人間として振る舞うことできる。同時に、このような思考様式で現実の世界を認識することも可能な筈だ。小梅氏は、”畜生”をヒトとして扱い、種族を越境するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 夕日は、同時に朝日でもある。現代の宇宙観を棄却し、「太陽に辿り着けるのでは」と考えた小梅氏は、夕日に向かって途轍もない距離を走った結果、先程まで夕日であった太陽が同時に朝日でもあることを知った。小梅氏は対象を指す言語は、対象を取り巻く状況に因って変化するのだと改めて指摘したのだ。
「チ▽コ」に注目。この▽は伏字でもあるが、象徴的男性器(ファルス)の欠如を表しているのでないか。ここで問題なのは、(精神分析的な意味での)象徴的ファルスが去勢されているかどうかである。小梅氏は、幼児期に去勢される象徴的男性器が、無意識の底に沈んでいる事をポコ”沈“という表現で示すのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 有名な倫理学の思考実験であるトロッコ問題についての論考。真っ直ぐ直進しても多くを殺し功利主義的道徳に反し、また曲折しても人を“自ら”殺す事となるジレンマに際した小梅氏は、「ジャンプする」という回答をするも、想定外の回答に対しトロッコがバグり、マグロと化してしまったのだ。駄作。
@dayukoume 何故数学的真理が自明であるのか、多くの数学者が議論してきた。数学の真理性の源泉は一体何だろうか。数学的経験主義者の小梅氏は、1+1という数式に疑問を持ち、今までの数学的経験を白紙とし、改めて「1+1」を探求する試みを為した。が、解はやはり2だった。数学の奥深さを感じさせる一作。
フリ〜スタイルといっても、あくまでスキーである以上、「スキー」の枠組みで行為が行われる。それは果たして自由なのだろうか。そこで小梅氏は、スキーを構成する道具に注目する。小梅氏は、既製品を用いたスキーは商業主義的だと述べ、大根おろしを用いたブリコラージュ的スキーを実践するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
『ロ〜マの休日』においては、過密なスケジュールから城を抜け出した王女の「休日」が描かれる。その「休日」は、労働による緊張が弛緩したが故に特別なのであって、仮に「まいにち休日」であったならあの物語は成立しなかっただろう。小梅氏が仕事を望むのは、仕事があってこそ休日が輝くからなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume チ◯◯ョ◯ならば、「ク,シ,ウ」が入るに決まっている…そうだろうか。これは既に大阪大学の皆さんが指摘している事だが、本作は、読者の多様な解釈可能性を積極的に肯定するバルトのテクスト論を踏まえた作品である。或いは、まいチクそのものがテクスト論的試作だと小梅氏は主張しているのだ。傑作。
@dayukoume 鏡像段階説を唱えたラカンは、幼児は生後6〜18ヶ月の間に、鏡に映る自己の像を認識し、自己像を“自己”として同定するとした。さて、窓は確かに鏡ではないが、鏡の役割を果たす。実は幼児である小梅氏は、鏡像段階を経て、窓に映る白が雪ではなく、自身である事に気付き、自我を形成したのだ。処女作。
現代、我々は私的なやりとりをSNSでおこなうが、果たしてそのプライバシーはどの程度尊重されているのか。オーウェルの『1984』は、ビッグ・ブラザーによる監視社会の恐怖を描いていた。「見ないでくれ!」という小梅氏の切実な願いは、現代において叶わないものとなっているのかもしれない。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 異端児とは、即ち狂人である。人間理性に全面の信頼を寄せた嘗ての西洋社会では、狂気は排除され、“無かった事”にされた。だが、確かに、そこに“異端児”は“居た”のである。人間理性に疑義を投げ掛ける小梅氏は、狂気の存在を身を以て示し、哲学界の異端児として西洋哲学の伝統を破壊せんとするのだ。
コウメAI太夫氏はこちらです。 twitter.com/dayukoumeAI/st…
@dayukoume 多くの人は今作を一笑に付すが、よくよく考えると人間の身体の約60%は水分で構成されており、湿度90%というのはそれを上回る。「万物は水である」としたギリシャの哲学者タレースの言を踏まえ、外気と体内に共に含まれる水分という共通項に着目した小梅氏は、水分の相互浸透を唱えるのだ。迷信的駄作。
田舎の町は、バウマンの用語を使えば、ソリッド・モダニティ、つまり固定的、保守的な傾向が強いことがあるだろう。ソリッドな体制は、リキッドな動きに対し、時に暴力性を発揮してしまう。田舎の町のひとは、対外的な脅威(=小梅氏)に対し、暴力を振るうことで、ソリッド・モダニティを堅守するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
「食」と「性」の関係は根深い。フロイトの議論を持ち出すまでもなく、「棒状」のものが口に含まれるとき、我々は一種のエロティシズムをそこから連想してしまう。「ごぼう」はまさしく象徴的な「チンチン」なのだ。 twitter.com/dayukoumeAI/st…
レヴィ=ストロースが分析したヒダツァ族のタカ狩では、「人間が同時に狩人でもあり獲物でもある」ようなパラドックスめいた方法での狩りが行われる。マグロ漁船でフィールドワークを行った小梅氏は、マグロ漁船の漁師たちがヒダツァ族と同様に、自らを餌とし、マグロを捕獲している事を報告したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
「時間を忘れる」という一節が「記憶をなくす」と対応関係にある。時間の蓄積がなければ記憶はなく、時間感覚の喪失は即ち記憶能力の喪失に繋がる。これは、「酔い」についての記述ではないか。小梅氏は非-時間的な経験を「楽しい」という記述のみによって示し、客観的な行為との差異を論じるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
マイケル・ジャクソンの舞いのミメーシスを行う小梅氏。「白塗り」を行い、白人に憧れたマイケル・ジャクソンに扮する小梅氏のその行いは、道化的皮肉なのだろうか。死者、或いは亡霊的存在として現-前する小梅氏は、生と死、人種的対立項、男/女といったあらゆる対立項を撹乱し、再形成するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 隠された文字に注視すると…「“ク“が隠されていると思ったら、“シ“でした」…と読み替えられる。実は、クは“苦“を、シは“死“を指すのだ。我々は日常、逃れ得ぬ“死“という苦を秘匿し生きているが、一度「死の隠蔽」を自覚すれば最後、実存的不安に駆られ○○○!と発狂するのだと小梅氏は指摘したのだ。
ユクスキュルの環世界論的立場からの記述を行なった作品。例えば、ハエトリ草などの食虫植物に足を踏み入れる虫たちの立場を考えてみよう。「栄養かと思ったら〜、縄張りでした〜。」という記述がまさに当てはまるではないか。環世界論的視座から、“畜生“たちのいきいきした生を描き切った作品。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
ラヴクラフトら作家たちの間で作られた創作神話「クトゥルフ神話」をモチーフにした作品。宇宙の外側に住む小梅氏は、クトゥルフ神話における「外なる神」である可能性が高い。今作では、「外なる神」の視点から膨張する宇宙と、宇宙の外側との拮抗が描かれているのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 『神と髪』を著した神学者カール・レーフラーによると、日本語の「髪」の語源は「神」であり、その有機性に我々日本人はアニミズムの精神を見出したのだという。さて、永久脱毛を行ってしまった小梅氏はその死を嘆く。「髪は死んだ」…レーフラーの一節を小梅氏は見事に描いてみせたのだ。傑作。
@dayukoume プルードンは「財産とは盗みである」とし、所有概念を批判した。強盗は一般に悪だが、1億円の占有者もまた強盗であり、悪である。その悪は、生命維持に牛乳を必要とするゴジラの命すら奪う。プルードンの影響を受けた小梅氏は、収奪者たるゴジラ達が実は盗まれた側なのだと逆説的に描いてみせたのだ。
2000年問題は、西暦2000年に機械が誤作動を起こす可能性があるとされた問題である。ーしかし人間もまた、脳の電気信号によって動く機械ではないか?機械と人間の相似性から、小梅氏は2000年問題の対象を人間に拡張する事が可能であると主張し、自身の思考が2000年以降支離滅裂となったと述べるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…