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@dayukoume プリキュアはどのような存在だろう。我々にとってプリキュアは無論ヒロインであるが、そこには一種の偶像性が潜んでいる。偶像は、その死と同時に効力を失うが、有機的な身体を持つ小梅氏は自身の偶像化の為に全身の凍結による身体の保存を選び、“プリキュア”として崇拝される道を選んだのだ。遺作。
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プラトンの議論を参照するに、我々人間は本来男女に分たれておらず、一つの球状の物だった。しかし、我々は引き裂かれ、「片割れ」を探す、恋に突き動かされる。一体誰が引き裂いたのか?そう、恋の放火魔であるゼウスだ。小梅氏はゼウスが球状の人間を分裂させる様子をシャボン玉に喩え、謳ったのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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今作が何を表しているかは、「奥さん」の語源を考えればわかる。かつて、武家などの屋敷の奥まったところを「奥」と呼び、前に出ることが少ない女性配偶者を「奥さん」と呼んだ。小梅氏は、旧来のイエ制度に由来する「奥さん」という言葉が現代に相応しくないとし、「手前さん」を用いよ!と説くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume 代謝を繰り返す我々の身体は、物質的観点からは、「生まれた時の身体」と「現在の身体」が全く異なる。では、同一性はどのように保持され、どこから「顔」が「顔」でなくなるのだろう。自身の顔にタイム風呂敷を被せた小梅氏は、レンタカーになった顔を示し、「これは“顔”なのか?」と我々に問うのだ。
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@dayukoume 50センチの乳首とは如何なる事だろうか。実は小梅氏は、身体改造により乳首を拡張し、一般的には生活の場で用いられない乳首を「道具」としたのだ。小梅氏は、身体を拡張・改造し、本来道具に依存する行為を身体のみで行わんとする、「身体=道具」という新たな価値観を大胆にも示したのだ。挑戦作。
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@dayukoume 「4K=コウメ4回」と示されながらも、「8K=コウメ9回」となっている。何故か。「クワス算」を提唱したクリプキは、規則に従う事の困難を示した。そう、「4K=コウメ4回」という命題は、「4より大きな数」について何の規則も示していない。小梅氏は8の場合+1する規則を示し、規則問題を提起したのだ。
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@dayukoume さて、小梅氏は「自分が自分じゃなくなった」と述べている。何故だろう。自分を自分と認識する事は、自我意識や記憶の連続性に依るのだが、その機能を担う脳の損傷は即ち自己の連続性の断絶に繋がる。蝿の王たる悪魔ベルゼブブを目指した小梅氏だが、自我が断絶され、朽ち果ててしまったのだ。猟奇作。
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@dayukoume 色とりどり、つまり様々な色が混在する虹色といえば、昨今話題となっているLGBTを象徴する色である。しかし、ここでは虹色では無く、実は黒であったと小梅氏は言う。黒色といえば、無政府主義、アナキズムの象徴である。人権派運動が一転、反権力的社会思想へと陥る危険性を小梅氏は指摘している。
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@dayukoume 嘗て人々には職業選択の自由は無く、固定的な生涯を送っていた。では近代以降はどうだろう。自由が謳われ、個人主義化していくに伴い、職業選択の規範は壊された。だが、我々の多くは未だ、好きな事を職には出来ていない。小梅氏は、誰もが“自己実現”の為に好きな事を職に出来る社会を構想したのだ。
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@dayukoume 歌を歌う際、腹から声を出す「腹式発声」が推奨される事が多い。だが、本当に「腹式発声」が歌を歌うに最適な発声法なのだろうか。従来の定式化された発声法に対する観念を解体し、再構築する小梅氏は、「膀胱式発声法」を提案し、明文化され難い身体知の可能性を極限まで探るのだ。近年稀に見る駄作。
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@dayukoume 「備えあれば患いなし」は、孔子が著した『書経』の一節だが、この一節に対し小梅氏は大胆な解釈を行う。そう、「報・連・相」だ。『書経』に於ける「備え」を報連相と解釈する小梅氏は、東洋古代思想に於いて既に報連相精神が育まれていたと指摘し、その精神が未だ根付かぬ現代社会を畜生と嘆くのだ。
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@dayukoume またしても「死」についての作品。本作で小梅氏は、「死にかけ」ている。思想家バタイユは、「死なずに死ぬ」、「部分的な死」、といった表現を好んで用いていた。生物学的死とは異なる主体の解体(死)を、陶酔に結びつけたバタイユの影響を受けた小梅氏は、幾度となく“死なずに死ぬ”のだ。傑作。
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そんなわけはないと思うが、この時「カツ丼は誰にとっての公園であるか?」を問わなければならない。緑無きカツ丼に、三つ葉という「自然」が加わった途端、カツの衣はさも土のように振る舞う…その瞬間、カツ丼はまさに「ハエ」のような生き物にとって、公園の役割を果たすアフォーダンスと化すのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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神代雄一郎によると、日本の集落構成は中国や欧洲に存在するような「広場村」の形態を取らず、一本の道路の両側に家並みが連なる「紐状集落」の形態をとるのだという。小梅氏はこれを踏まえ日本の共同体の中心は広場ではなく、むしろ往来の場であるストリートにあると逆説的に論じてみせたのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume レヴィナスは、愛撫行為を食人の疑似行為とした。フェラチオなどはまさにその例で、疑似的に男性器を“食す”のだ。性器がバナナやアイスなどに喩えられるのはこの原理に因る。さて、小梅氏は、床に寝ている男性の、“朝の男性器”を“タケノコ”と喩えている。小梅氏が何をしたか言うまでもない。駄作。
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@dayukoume ちなみに、新作ではない。
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@dayukoume 『動物を追う、故に私は〈動物〉である』を著したデリダの影響を受けた作品。言語等、人間に固有な幾つかの能力を挙げ、果たしてそれは固有なのか?と疑義を呈する議論を受け、「猫も歌うのだ!」と主張し猫と化した小梅氏は、動物と人間の境界を曖昧にし、人間性という西洋哲学の伝統を破壊するのだ。
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近年、サウナで「整う」ことが文化的に流行の兆しを見せているが、ここでの「整い」は当然「私」の肉体と精神の「整い」以上のものではない。小梅氏は、あくまで「整い」は私的な体験であって、その上で外的な志向性の発露へと繋げよと説くのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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「0を聞いて5万忘れる」というと奇妙かもしれないが、我々の記憶能力とはそのようなものである。例えば、昨日食べた食物の詳細を我々は覚えているだろうか。大まかな色や味は覚えていても、その細やかなディティール…その瞬間瞬間の様々な記憶…「5万」とあるような仔細を我々は忘却してしまうのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume 「勤労が無い」という事は、奴隷らが全ての労働を担う古代ギリシャのポリス社会を示しており、文章に注釈を加えると、「(嘗ては知識階級にとって)勤労すら無かった!畜生共!」となる。小梅氏は、「勤労感謝の日」を、労働概念を普遍化するイデオロギー装置と指摘し、古代ギリシャに還れと訴えたのだ。
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「鶴の恩返し」などの異類婚姻譚の話は様々であるが、その一つに「蛤(はまぐり)女房」という話がある。助けた蛤が、美女としてやってくる、といった内容だ。異類婚姻譚では、異類が人間に化けた姿が美しく描かれる事が多い。それを踏まえた小梅氏は、世の中の美男美女の正体をホッキ貝だと考えるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume わたパチは、製造中止された過去の存在である。そんな過去の存在…亡霊が登場する作品は、デリダの概念を援用すれば憑在論的な作品である。過去の存在たるわたパチが、現在時制の元現れる無時間的作品を描いた小梅氏は、口内炎の痛みを伴いながら、“パチッ”とわたパチが喪われた現実を畜生と嘆くのだ。
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小梅氏の #まいにちチクショー が途切れる恐れがあります。
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@dayukoume ハイデガー的「死への存在」を描く『100日後に死ぬワニ』におけるワニ君の死後、多数の商業展開が行われた。この商業化された「死」を、一部の人々は「電通案件」と呼んでいる。では、小梅氏はどうか。小梅氏は、自身の「まいチク」内での「死」が、決して商業化され得ないものだと強調するのだ。
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ドゥルーズ=ガタリ的に言えば、我々の欲望は、つねに散乱しているものだ。二手の道の「どちらか」を選ばなければならない…それは、我々の身体が一つであるが故に生じている。小梅氏の欲望は二手の道の「どちらも」を求める。小梅氏の精神の分裂は、本来あり得ぬ身体の分断を生じさせたのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…