哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(リツイート順)

@dayukoume ヘーゲルは「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」と述べた。これは、哲学(梟)は、過ぎ去った時代を事後的に概括する事しか出来ぬ、という意である。埠頭(現世たる此岸)で哲学し、船(次の時代の比喩)を待つ小梅氏。だが、哲学は次の時代を哲学する事は出来ない。小梅氏は、黄昏に飛び立ち、溺死したのだ。
@dayukoume 言葉により世界を分化出来ぬ存在にとって、目に映る光景は「光景」ですらなく、まして「世界」ですら無い。その視覚情報は科学的原理に還元したもの……即ち光に過ぎないと言えるだろう。小梅氏は、「光」が言語を伴い初めてゴボウへと分化される様を描き、言語論的転回以降の視覚認識論を論じたのだ。
「白塗りを落としたら顔がなくなった」。これはゴッフマンの『行為と演技』の内容を踏まえれば簡単に理解ができる。ゴッフマンによれば、「自己」は、社会において求められた役割たる仮面(ペルソナ)によって形成される。白塗りを落とした途端、「コウメ太夫」という顔=自己は融解していくのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 「まいにち死ぬ」という奇妙な一節は、まさしく小梅氏の思想的実践を示している。まいチクの作者である小梅氏は、バルト的な「作者の死」や、作中での「象徴的な死」を幾度も繰り返す。小梅氏は、一度限りの「死への存在(Sein zum Tode)」たる“ワニ君”と自身のあり方の違いを強調するのだ。傑作。
@dayukoume ・小梅氏と無主体論についての補足 〈私〉は、哲学に於いて暗に前提される事が多い概念です。デカルトの「コギト」などは典型的な例ですね。 ですが、小梅氏の作品は主語が存在しません。「我思う」の「我」が自明視されるデカルトへの批判が小梅氏の思想に暗に現れている事は自明でしょう。
@dayukoume 不可知論の立場では、神について、“知ることが出来ない”とする。嘗て不可知論の立場を取っていた小梅氏だが、宗教的体験を果たし、“知った”。だが、オットーによると、「聖なるもの」との邂逅は不合理性を孕むのだという。知っても“理解できない”…それでも小梅氏は、「不合理故に我信ず」のだ。傑作。
@dayukoume 太陽に水をかける。その行為に果たして意味はあるのだろうか。こうして、人生の行為に“意味”を見出そうとしていくと、日々の行為もまた無意味に思えてくるではないか。『シーシュポスの神話』にて人生の“不条理”を描いた哲学者カミュの影響を受けた小梅氏は、人生の無意味さを受け入れよと説いたのだ。
@dayukoume ニーチェは、「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」とし、相対的な歴史観を示した。さて、小梅氏にとって、引退はまだ起きていない出来事だが、それに対し事務所では引退が既に歴史上の事実となっている。歴史や事実を恣意的に解釈する歴史修正主義者に対し小梅氏は、実証主義を掲げ闘うのだ。
ウィトゲンシュタイン=クリプキの「規則」に関する問題を思い起こさせる作品。1×1=1、1×2=2、1×3=3…と続いていって、果たして答えが突如として「キャミト〜ルキャミタマ」にならないと言い切れるのだろうか?その規則はあくまで、有限回の1×3までしか示せていないのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 我々は、「食」を享受する事により生存が可能になるが、「食」の享受は、本来的に不確実性を伴う行為である。本来であればその摂取が不確実な「食」を、さも当然の様に享受している事態を年の瀬に気付いた小梅氏は、そばを生命線たる命綱に例え、一年を過ごせたのは食のお陰なのだ!と感激したのだ。
@dayukoume 人生とは何かを思索した小梅氏は、「出会いと別れ」という定義から脱却し、生の段階説を発表した。この段階説によれば、生の第一段階は赤ちゃんであり、ヒトは常に未熟かつ他者に依存しなければ生きられない“人間”(ヒトの間の存在者)であるという。更に、第2段階の「あの世」では…
若手起業家が増加するなど、昨今では最早「社長」という存在は「高年齢の男性」に限られなくなっている。若いスーツ姿の人を一目見て「新入社員」かと思ったが、実際は「社長」であったという経験をした小梅氏は、自身がステレオタイプのエイジズムに囚われていた事を悟ったのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
「何が」溶けるのだろうか。主語が省略される小梅氏の文章は、読者にその解釈を委ねる。シュルレアリスムの形式を取ることを踏まえれば、ブルトンの著作『溶ける魚』を念頭に置いているのだろう。小梅氏にとって菅総理の政治は、期待することは何もない、シュルレアリスム的に“溶けて“いくものなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
普段なら「潰れました〜」だが、潰れていない。それも隠蔽体質の病院が潰れていないのは示唆的だ。医療ミス等、様々なものを隠蔽する病院には一見問題がなく見える。寧ろ問題があった際に、素直にそれを露呈させる方が健全ではないか。小梅氏は、隠蔽体質の病院が潰れないことを逆説的に風刺したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
ガラスの靴で「ホップステップジャンピング」したらどうなるか、考えてみて欲しい。靴が割れたら大変だ。シンデレラとなった小梅氏は、テンションが上がりホップステップ…と行きかけるも、危険性を瞬時に判断し、「チンチンをニャンニャンする」事によってその興奮を収めたのだ。近年稀に見る問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
公的な空間における性の排除は、一種のパノプティコンによって構築されるが、「周りに誰かいない」タイミングなどいつでもあった筈だ。「公的な場」のパノプティコン性が無くなるまでエロ本自販機での購入を控えている小梅氏は、抑圧的な監視性によってエロ本が買えないことを畜生と嘆くのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
全ての日が木曜日になっている。どのような意味があるのだろう。我々がよく知る象徴的な「木曜日」といえば…そう、ウォール街大暴落の「暗黒の木曜日」だ。今現在、そのような悲惨な状況は見当たらないが、もしかするとこれは、小梅氏なりの「暗黒の木曜日」再来の予言と警鐘かもしれない。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
ひとつ、問題にしなければならないことは、最近小梅氏がメディアにおいて「哲学的」と、ある種の嘲笑めいた紹介をされている現実があることです。 私自身、この問題の責任の第一人者であるのですが、ここでの「哲学的」は、「意味不明」と同質のものとして扱われていることが問題です。
「実質無料」の物は数多存在する。我々人間を経済的合理性を備えた存在とするなら、当然有料の物より無料の物を選ぶ。しかし…例えば"ソシャゲ"など…「無料」を謳うものは巧みに金銭を払うよう促してくる。「実質無料」の物でありながら、金銭を払ってしまう経済的不合理性を小梅氏は畜生と嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
本作は『創世記』を念頭に置いたものである。イヴは、禁じられた「知恵の実」…よくリンゴとされる…を蛇に唆されて食べてしまう。つまり、リンゴは人類にとって”毒”であったと言えるが、小梅氏によれば、イヴが本当に食べたのは毒蛇の側であったのだという。小梅氏の聖書解釈の独自性が伺える作品。 twitter.com/dayukoume/stat…
小梅氏の元に訪れた招待は、まさしく死者からの招待に他ならない。まいチクを遡るとわかるが、臨死体験を繰り返す小梅氏は、死と生を反復するバタイユ的実践者である。自ら死ぬだけでなく、死者の側からの招待を得た小梅氏は、死の実践を通じ、ついに死者とのコンタクトを獲得する事に成功したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
何故小梅氏が「機械(怪)人形」の役を任されているのだろうか。小梅氏の「動き」を思い返してみよう。小梅氏の「ぎこちなさ」は、さも出来の悪い「ロボット」のようだ。岡田美智男の述べる〈弱いロボット〉のような小梅氏のあり方は、我々にとって、機械的であり、奇怪に見えるものなのだろう。 twitter.com/airachaaaaaan/…
食い逃げは通常、店舗での無銭飲食を行うものだが、小梅氏は自分の家から逃げている。古代ギリシアにおいては、エコノミーの語源がオイコス(家)であるように、オイコス(家)こそが経済的な場であった。家からの逃避はまさに経済からの逃避であるが、寧ろそこでこそ真のお笑い=芸術が追求できるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 夏が終わり、巡り巡る四季。冷涼なるその季節は、食欲の秋か、芸術の秋か。郷愁を懐く人々を横目に、小梅氏は死神の足音を聞いていた。ハイデガー哲学の影響を多大に受けた小梅氏は、季節が巡る事は同時に自身の死期が近づいている事なのだと考え、逃れ得ぬ死に向き合う覚悟を決めたのだ。傑作。
@dayukoume 狂乱した小梅氏は、そこで墓石に手をぶつけ、「痛み」を知覚する。そう、小梅氏は、「痛み」こそを生きている証左とし、改めて“生”を自覚したのであった。生を自覚し、自身を見失う事無く、力強く生きよ!と説く傑作。