哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(リツイート順)

@dayukoume アーレントは、動物が有する野生的なあり方をゾーエとした。例えば人間の性行為や排泄はこれに当たるが、公的には敬遠されている。一方、亀の排卵は神秘的なものとして語られている。ヒトのゾーエのみが秘匿される現状を憂慮した小梅氏は、野糞と亀の排卵が本質に於いて同一であると指摘したのだ。
「存在の概念がない世界」という思考実験を踏まえた作品。「白という概念が無い世界」において、小梅氏が、世界外から「白という概念」をもたらした時、一体何が起きるのか。受容か、排除か、狂乱か。全き異質さは、クトゥルフ的「宇宙的恐怖」を世界に齎し、チクショー❗️と絶叫する事態が生じるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
まいチクを海外へと発信しようと英訳を行っている方がいるようです。 私は、小梅氏は現代のジェイムズ・ジョイスなのではないかと思っています。 小梅氏のまいチクは、「インターネット時代の『フィネガンズ・ウェイク』」として、海外で高い評価を得るかもしれません。
@Shiga_ukoume どうやら、滋賀大学にもコウメ太夫研究会が誕生したようです。次々とコウメ太夫研究会が立ち上がっており、大変喜ばしいです。 「まいチク」の体系的な学術研究がが活性化することを期待しています。
@dayukoume 遊戯王カ〜ドに於いて主要な物は「モンスターカード」である。そう、小梅氏の息子は父である小梅氏を同様に“モンスター”と捉えているのだ。フロイトによる症例報告の一つ、ハンス少年の例では少年が父への敵意と恐怖を馬に投影していた。小梅氏の息子は、遊戯王モンスタ〜に父の歪な姿を投影するのだ。
@dayukoume なんと小梅氏は、W杯をナショナルアイデンティティの強化装置であると指摘する。確かに、日本代表の応援経験を通じ、我々は「日本国民」である一体感を感じるであろう。小梅氏は、W杯を肯定しつつ、他国を蔑視する行き過ぎた民族主義(ブラックホール)に陥らぬよう我々に警鐘を鳴らしたのだ。大問題作。
意味が判然としないが、「伝説の剣」がポイントであろう。「ヤマトタケル」や、「アーサー王」など、伝説上の英雄が英雄たり得るにあたって、「剣」の役割は大きい。「剣の英雄」である小梅氏であったが、それがアスパラでは英雄然としないのだ。致命的駄作。 尚、上の句はよくわからない。
今までは「ある特定の場所に引っ越ししたら、特定の場所が潰れました〜」という形式だったが、「◯◯に」の◯◯を、場所ではなく時間を代入する事でカテゴリー錯誤を起こし、「夜が潰れる」という奇妙な文章を生み出している。もしかすると、今までの引っ越しは伏線だったのかもしれない。革新的傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
「食」という行為の生々しさは、ポケモンにおいて隠蔽され続けている。今作ではサンドイッチの具材に卵を用いることが出来るが、ポケモンにおいて食される卵は「何の」卵なのか。疑問を持った小梅氏は、ポケモンが食品としての卵たるピ〜タンを産む様を描写し、その欺瞞を指摘するのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
ここには永遠性の問題がある。我々は、「永遠存在」としての「友達」になることが出来るのだろうか。小梅氏は、我々は決して「永遠存在」となることは出来ないと断定する。友人関係が8分で終了したことを嘆く小梅氏は、我々はイデア的存在者ではないとし、友人関係が有限であることを強調するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
「上位互換」として示されるものが「ずぶ濡れ臭い逆さま」であった。この逆説的な論法に覚えはないだろうか。そう、坂口安吾の『堕落論』だ。坂口は、道徳的観念に縛られない「堕落」こそを称揚する。『堕落論』に影響を受けた小梅氏は、「ずぶ濡れ」で「逆さま」なあり方こそを上位互換とするのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
ニーチェの概念である「力への意志」は、より強いものになろうとする意志で、人間が自然を支配するようになるプロセスにおいても発揮された。その一助として人間は技術を用いたわけだが、果たして人は完全に自然を支配できるのだろうか。技術を用い自然を支配せんとする小梅氏は、太陽に敗北したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
我々の身体は有機的な繋がりの元に作用するのだが、その一部が切り離されると、それは「私」の一部分ではなくなる。ここに部分的な死が生じる。「顔の〜部」を切り離した小梅氏は、それが「ありんこ」等によって処理される様を見事に描写し、経験不可能な「一人称の死」を部分的に経験したのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
ターザンが森の木々をぶら下がって移動する技術は、マネ〜リテラシ〜とは対極にある。マネ〜リテラシ〜を高めれば高める程に、資本主義の内面化を行なってしまう。寧ろそれは、資本主義のメタ的認知を不可能にしてしまうのでないか。そこで小梅氏は”野生の思考”を行うため、タ〜ザンの技術を磨くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume ネタが思い付かない事は芸人失格と言えるが、小梅氏は敢えて「ネタが思い付かない」と述べている。デカルトは唯一確実な真理は他ならぬ我の思考だと考え、「我思う、故に我あり」と述べた。小梅氏はこれを踏まえ、「我思う」を出発点に捉え直し、一からネタと真理を探求していくのだと意欲的に述べた。
小梅氏のシュルレアリスム的な手法を自ら解説した一作。我々は小梅氏の作品を「深い」ものとして解釈する。しかしながら小梅氏の作品は、無意識の領野で”何も考えずに”、次々と生み出されるものに過ぎないのかもしれない。時に恣意的になる「コウメ太夫研究」の研究者たちに警鐘を鳴らす重要な作品。 twitter.com/dayukoume/stat…
『ウルトラマン』においては、突如市街地が戦場になることがある。そんななか、怪獣を倒すウルトラマンは一見ヒーローのように見えるが、作中において踏み潰される一般人の存在は不可視化されている(三人称の死)。小梅氏は、三人称の死を一人称の死に引き寄せることで、その死を重く受け止めるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
青土社様へ 『ユリイカ』コウメ太夫特集の際は呼んでください。
何度も死んでいる小梅氏だが、流石にフグをそのまま食べたら死ぬことぐらい分かっているはずである。では何故食べたのか。かつて、多くの日本人がフグを食し、死んできた。その歴史を小梅氏は、「まいチク」という物語の上で再演し、“死ぬ”ことによって、我々にフグ食の歴史の重みを伝えるのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 当然、昭和生まれである小梅氏は平成JUMPに入れるわけがないのだが、アンケートの結果はこのようになっている。敢えてとち狂ったアンケートを取った小梅氏は、統計の対象によってバイアスが大きくかかる事を見事に証明してみせ、統計調査はあらゆるバイアスを考慮せよ!と警鐘を鳴らしたのだ。傑作。
「誕生日」が「生誕祭」となる…これは、現代においてはアイドル文化やオタク文化などで見られるが、対象が「推し」といった形で崇拝の対象となっているケースが殆どであろう。では、小梅氏は一体誰に崇拝されているのか。そう、“チクシスト”たちだ。我々チクシストは、小梅氏の生誕を祝うのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
またしても「沈黙」である。先日ピカートの『沈黙の世界』を引用していた小梅氏だが、今作では「チクショー!」以外何も語っていない。小梅氏は、「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」ような、ウィトゲンシュタイン的な視座から、形而上学についての「沈黙」を始めたのかもしれない。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 「虹と二時」この音韻的同一性から時計を見た小梅氏…「もしや、今は二時では…!?」ここで二時なら、ユング的シンクロニシティの概念、共時性が示されていた筈だ。だが、実際には三時だった。この非共時性が示された瞬間、小梅氏の哲学が暗に前提していたユングの概念が崩壊したのだ。歴史的作品。
エロ漫画の如き表現であるがよく考えてみよう。「性」に対し、本能を解き放つ行為が「おかしくなっちゃう」事であるならば、我々の「動物的本能」は“おかしな“ものなのだろうか。小梅氏の哲学は一貫している。性行為をせずとも我々は“おかしい“のだとし、小梅氏は我々の中の動物性を強調するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
問題ないようです。