哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(リツイート順)

@dayukoume 贈答関係が結ばれている父と息子。ベイブレードの贈与に対する、氏の息子の返答は顔の蹂躙であった。父子の贈答関係の持続は、父による支配を肯定するものとして、エディプス的抵抗を試みる小梅氏の息子は、レヴィナスの“顔”概念に着想を得て、小梅氏の顔をエディプス的葛藤の場と見立てるのだ。傑作。
ここでの「白塗り」を小梅氏だと考えると、小梅氏が死んでも「まいチク」は残り続ける、という意味に解せそうだが、下の句に疑問が残る。「この世とあの世もいってかえって」と、小梅氏が生と死を繰り返していることが示されているのだ。一体どういうことか。 twitter.com/dayukoume/stat…
こちらのチクショー!ですが既に解説しています。 宇宙の深淵に立った小梅氏は、一種のヌミノーゼを果たしたのかもしれませんね。 twitter.com/koume_philo/st…
@dayukoume ちなみに私はビアンカ派です。
近年の人文科学においては、「オブジェクト指向存在論」や「アクターネットワーク理論」など、事物に注目する存在論的転回が生じており、そこでモノに魂の存在を認めるアニミズムが注目されている。小梅氏はボックスシーツとの対話を通じて、アニミズムを実践しようとしたが、失敗したのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
「職業」というより”食料”ではないか、というツッコミ待ちの作品。とはいえ小梅氏が食料になることがあり得るのだろうか。ある物が食料になるという事は、そのものが「死」を迎えた事を意味する。つまり小梅氏は「芸人やってなかったら」、死んでいたのかもしれないのだという事を諧謔的に述べるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
止まり方を知らないおばあちゃんは、停止無き、不断の運動へと向かう。老婆は、永遠に続くその滑走を止めることができないのである。小梅氏はそのことを悲劇であるかの如く「畜生」と嘆く…かくして”永遠”になった老婆は、補陀落渡海の渡海船の如き、スノ〜ボ〜ドの上で即身仏となったのかもしれない。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 『おっぱいバレー』では、学生らが「おっぱいを見る」事を目的に奮闘する…だが、小梅氏は、その目的に「女性の」という限定詞が暗に前提されている事を批判する。男/女の脱構築を試みる小梅氏は、Eカップのおっさんという“巨乳”を登場させ、自身が女形である事も含め、男/女の境界を掻き回すのだ。
小梅氏は一体なぜ「嘆き込ん」だのだろう。「みそら~めんにぽちゃん」の一節から伺えるように、小梅氏が「川」の水質汚濁を嘆いているのは明らかであろう。絶滅危惧種とされているメダカが、「みそら~めん」のような水質の川に「ぽちゃん」している状況を嘆く小梅氏はその思いを「畜生」と綴るのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 夢と現実の違いは何だろう。多くの場合、我々は夢を夢として認識するのは、夢から覚めた後である。そう考えると、事後的にしか事態が現実であるか否かの認識ができないのでは無いだろうか。夢と現実が曖昧となってしまった小梅氏は、ペイペイダンスを死の舞踏として舞い、墜落死したのだ。遺作。
ラヴクラフトが創造した独自の神話体系「クトゥルフ神話」には外宇宙に存在する「外なる神」と呼ばれる神が存在する。外なる神たる小梅氏が開会式に登場しないのは、外なる神と人々の接触が狂気を生むからである。開会式が無事に終わったのは、小梅氏が狂気をもたらなさなかったからである。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume ホロン的ヒエラルキーに関する議論を先日行った小梅氏。そのヒエラルキーの下層部は当然下層に向けて開かれている…だが、その構造は無限なのだろうか。構造論を研究し、ヒエラルキーは下方に於いて有限である事を突き止めた小梅氏は、自身がそこに位置付けられる可能性を憂慮し、畜生と嘆くのだ。
@dayukoume 博物館に保存される物品は恐らく、「価値がある」とされる物品である。神秘主義思想に傾倒し、未来視の能力を手に入れた小梅氏は、「一万年後の価値観」から棄てられる自身のミイラを見て嘆き、博物館の仕事は、相対的な価値観から、凡ゆるモノを保存する事ではないか!?と博物学に疑義を呈したのだ。
@dayukoume 今作もまた西田哲学の“場”を念頭に置いている。実はナス場は🍆ではなく、“為す場”を示しており、この“為す場”とはまさしく西田哲学における、様々な現象が為される場を指している。スナからナスへの変異を通じ、小梅氏は“砂場で遊ぶ”という現象は”為す場“に依拠する事を見事に指摘したのだ。
@dayukoume 先日も述べたが小梅氏にとって「お餅」は死の象徴であり、欲望の対象でありながらも消費が不可能な存在である。ラカン的に言えば、欲望の不可能性から、父性隠喩として「ライオンのちんちん」が想像的にファルスの領域に現れたのである(🦁は父性)。小梅氏は見事に🦁の男性器を食してみせたのだ。駄作。
@dayukoume 「コウメダユウ」の六文字が多様に分割されると同時に、「白塗り」や「破綻」といった言葉も分節化され示されている。小梅氏は、「最強のコウメ太夫」は、「コウメ太夫(固有名)」「白塗り」「破綻」という諸要素に依り成立すると述べ、要素集合(合体)により、個人は同定(identify)されると述べたのだ。
@dayukoume 我々が消費している「美」は、穴場であれど「桜の美」である事は変わらぬ。「美」が大衆化すると、「美を消費する事」がイベントと化し、「美そのもの」が蔑ろにされてしまう!と述べた小梅氏は、落とし穴という比喩を用い、穴場を探す人々は大衆と同調している事に変わりない!と警鐘を鳴らしたのだ。
資本主義の原理を寓話的に描いた作品。資本主義社会では、市場原理によって時に売れない店や企業が淘汰されていく。どれだけ情に訴えかけたとしても、市場のリソースは無限ではないのだ。小梅氏は、市場競争に敗れゆくカレ〜店が情に訴えかける様をありありと描き、その不条理さを畜生と嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
千葉大学にコウメ太夫氏がやってくるようです。千葉大学のコウメ太夫研究が一気に進展する可能性があります。 twitter.com/ChibaU_fes/sta…
「カメラが小さくなり…」は小梅氏が超小型カメラを開発した事を示している。すると上の句は、科学者として「自然」を解き明かすことを示しており、近代合理主義の精神を小梅氏は「人間として当然」と捉えていることがわかる。しかし小梅氏はそれを「畜生」と捉え、自身の科学的態度を反省したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume そう、小梅氏は哲学者として、「私」の存在論的様式を確認するビッグチャ〜ンスを手にしたのだ。通常、入れ替わりが起きたとしても、“私”は常に“私”の筈だ。だが、“私”の領域に他者が滑り込み、「霜降り明星粗品さん」という三人称の元、「私」という一人称から解き放たれたらどうなるのだろう。傑作。
@dayukoume 餅を見ただけで小梅氏はヒステリーを起こしている。先程注釈を加えた作品(お雑煮だと思ったらお雑巾でした)を踏まえても、小梅氏が餅(に潜む死)に対する恐怖を大いに抱いている事が分かる。日常に自己の死の可能性を見る小梅氏は、キューブラー=ロスの述べる死の受容プロセスを着実に歩むのだ。傑作。
大阪大学コウメ太夫研究会さんの『築抄』が大阪大学の学祭にて販売されているようです。 是非皆さんもお買い求めください。 twitter.com/ou_koume/statu…
近年の小梅氏の作品は確かに「哲学的」と評されますし、小梅氏自身は、その反応を期待して作品を制作している節があります。その責任の一端は私にあります。申し訳ございません。 私個人は、また、数年前の「チンパンジ〜」路線の小梅氏の顔を覗かせてくれると嬉しいと思っているのです。
ここで小梅氏は「圧力をかけられて震える鍋」という、擬人化を行なっている。道具をただプラグマティックなものとしてしか扱わない消費社会は、使えない道具をすぐに捨ててしまう。人間-道具の関係はプラグマティズムに支配されており、それが人間から道具へのパワハラたる「圧力」となっているのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…