哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(新しい順)

正直なところ、責任を感じております。
今までは「ある特定の場所に引っ越ししたら、特定の場所が潰れました〜」という形式だったが、「◯◯に」の◯◯を、場所ではなく時間を代入する事でカテゴリー錯誤を起こし、「夜が潰れる」という奇妙な文章を生み出している。もしかすると、今までの引っ越しは伏線だったのかもしれない。革新的傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
ガラスの靴で「ホップステップジャンピング」したらどうなるか、考えてみて欲しい。靴が割れたら大変だ。シンデレラとなった小梅氏は、テンションが上がりホップステップ…と行きかけるも、危険性を瞬時に判断し、「チンチンをニャンニャンする」事によってその興奮を収めたのだ。近年稀に見る問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
太陽フレアは、太陽の表面の巨大な爆発現象とされるが、それが余りにも莫大なものであった時、我々に一体何が出来るのだろう。地球を呑み込む巨大な太陽フレアを目前に、人類はただ「占い」に縋るしかない。しかし、占いの結果がどうであれ、太陽フレアは無慈悲に我々を呑み込んでしまうのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
「ミーム」の語源の一つはギリシア語の「ミメーシス」であって、これは模倣という意味がある。新たなネタを作る時に、”以前の”コウメ太夫を模倣する…小梅氏は、「コウメ太夫さん」のネタを真似て、再帰的に増殖する。小梅氏は、ミームとしてのコウメ太夫の絶え間ない自己増殖を大胆に描くのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
本作は『創世記』を念頭に置いたものである。イヴは、禁じられた「知恵の実」…よくリンゴとされる…を蛇に唆されて食べてしまう。つまり、リンゴは人類にとって”毒”であったと言えるが、小梅氏によれば、イヴが本当に食べたのは毒蛇の側であったのだという。小梅氏の聖書解釈の独自性が伺える作品。 twitter.com/dayukoume/stat…
ウィトゲンシュタイン=クリプキの「規則」に関する問題を思い起こさせる作品。1×1=1、1×2=2、1×3=3…と続いていって、果たして答えが突如として「キャミト〜ルキャミタマ」にならないと言い切れるのだろうか?その規則はあくまで、有限回の1×3までしか示せていないのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
学校と刑務所の相似性は、フーコーを持ち出すまでもなく理解できる。「あだ名禁止」によって、学校=刑務所は、、“囚人“達のコミュニケーションをも規律化し、囚人間に生じる差異を均質化しようとする。しかしそれを推し進めると…「番号」によって、彼らのアイデンティティは剥ぎ取られるのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
我々は自身の身体を「可食性のあるもの」としては通常捉えない。「ジョーズ」が何故我々を恐怖に至らしめるか…それは、我々の身体を生々しい「肉」に変えてしまうからだ。人間-鹿の関係が被捕食者-捕食者の関係になった時、我々に出来る事は畜生と生々しく叫ぶ事だけなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
『ロ〜マの休日』においては、過密なスケジュールから城を抜け出した王女の「休日」が描かれる。その「休日」は、労働による緊張が弛緩したが故に特別なのであって、仮に「まいにち休日」であったならあの物語は成立しなかっただろう。小梅氏が仕事を望むのは、仕事があってこそ休日が輝くからなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
我々は、自分が「何者か」を社会との関係に於いて措定する。家族という社会単位なら、「私」はAの子で、Bの母だといった風に関係的に自己を理解できる。しかし、都市社会は人々を均一化してしまう。買い物に出かけた小梅氏は、都市社会という空間にて自身が「何者でもなくなっていく」事を嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
時間的概念である「年齢」に対して、「精神年齢」という概念は評価基準によって変動する。アメリカの心理学者ターマンの用いたものでは2-18歳までが年齢尺度となっており、以降は成人級として一括される。精神年齢において永遠の18歳を生きる小梅氏は、直線的時間の堆積を直視できず、畜生と嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
小梅氏のネタは明らかに年々「意味と論理」からの乖離への志向が強くなっており(拙稿「コウメ太夫とシュルレアリスム試論」にて解説)、私自身困惑しています。 テレビに出るたびその「奇怪さ」が加速しており、タレントによる突っ込みによってなんとか維持できている現状はあまりに不健全です。
ここで小梅氏は「圧力をかけられて震える鍋」という、擬人化を行なっている。道具をただプラグマティックなものとしてしか扱わない消費社会は、使えない道具をすぐに捨ててしまう。人間-道具の関係はプラグマティズムに支配されており、それが人間から道具へのパワハラたる「圧力」となっているのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
本日、4/1日。ついに小梅氏との共同制作にて『コウメ太夫と学ぶ まいにち哲学365日』が畜生堂さんから出版されることとなりました。 まいにちのちょっとした「チクショー」な出来事を考えていきながら、自然と哲学的思考が身につくレッスンとなっています。 是非本屋でお買い求めください。
こちらのツイートは私のものではありません。 念のため周知しておきます。
非常に鋭い現代の商業主義批判だ。「コ〜ドレス」な家電であれ、それが企業によって製造されたものである限り、常に特定の企業の「ブランド性」を付与されており、そのブランド性は商品そのものから切り離せないものである。企業は、家電商品を通じて我々と緩やかに”接続“し続けているのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
その起源が如何なるものであれ、「バレンタイン」は、現代日本においては男/女という性規範に基づいた年中行事と化している。「コウメ太夫」は男/女の二項対立を混乱させ、解体する…小梅氏は、旧態依然とした「男/女」の二項の破壊者として収監されることとなってしまったのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
小梅氏は一体なぜ「嘆き込ん」だのだろう。「みそら~めんにぽちゃん」の一節から伺えるように、小梅氏が「川」の水質汚濁を嘆いているのは明らかであろう。絶滅危惧種とされているメダカが、「みそら~めん」のような水質の川に「ぽちゃん」している状況を嘆く小梅氏はその思いを「畜生」と綴るのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
F.フクヤマは、『歴史の終焉』において、民主主義と自由経済が勝利し、社会制度の発展が終結するという状況を「歴史の終焉」とした。フクヤマの議論は、ヘーゲル的な弁証法の図式に則っているが、歴史が終焉するとその図式は更新されなくなる。(続) twitter.com/dayukoume/stat…
人類は有機性と、それに伴う「死」の呪いにかけられている。人生は有限なのだ。しかし小梅氏は、その有限性の克服へ乗り出す。ハラウェイの「サイボーグ宣言」よろしく、「サイヴォ〜グ」と化した小梅氏であったが、その機械化も「期間限定」と、有限性から逃れられぬことに畜生と涙したのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
ドゥルーズ=ガタリ的に言えば、我々の欲望は、つねに散乱しているものだ。二手の道の「どちらか」を選ばなければならない…それは、我々の身体が一つであるが故に生じている。小梅氏の欲望は二手の道の「どちらも」を求める。小梅氏の精神の分裂は、本来あり得ぬ身体の分断を生じさせたのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
初めて辞書を手にしたばかりの幼き頃、「男根」などの言葉を引き、純粋に喜んでいた…そんな経験はないだろうか。国語辞典を購入し、卑猥な単語を引いた小梅氏は悟る。「国語辞典は子どもにとって、その他の単語の付録の付いたエロ本では無いか…?」と。童心に帰らせてくれる作品。 twitter.com/dayukoume/stat…
「砂山のパラドックス」は、人間の言語が曖昧であることを示す思考実験だ。それに対して小梅氏は、「1日1円」を実質無料と定義するならば、「100万円」もまた無料でないか、と実験を行う。そして、100万日=約2700年の悠久の時を生きた小梅氏は、自身の死にすら気付かぬままその実践を終えたのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
止まり方を知らないおばあちゃんは、停止無き、不断の運動へと向かう。老婆は、永遠に続くその滑走を止めることができないのである。小梅氏はそのことを悲劇であるかの如く「畜生」と嘆く…かくして”永遠”になった老婆は、補陀落渡海の渡海船の如き、スノ〜ボ〜ドの上で即身仏となったのかもしれない。 twitter.com/dayukoume/stat…