哲学者コウ・メダユー(@koume_philo)さんの人気ツイート(いいね順)

ニーチェの概念である「力への意志」は、より強いものになろうとする意志で、人間が自然を支配するようになるプロセスにおいても発揮された。その一助として人間は技術を用いたわけだが、果たして人は完全に自然を支配できるのだろうか。技術を用い自然を支配せんとする小梅氏は、太陽に敗北したのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 自/他は、対立する概念と見做される事が多いが、果たしてそうなのだろうか。ベランダに現れた“何者か”は、その得体の知れなさから我々に恐怖を与える。そう、我々は他者が真に何を考えているか、絶対に知りようが無いのだ。小梅氏は体験を以って自/他の非対称性と、その得体の知れなさを指摘したのだ。
食い逃げは通常、店舗での無銭飲食を行うものだが、小梅氏は自分の家から逃げている。古代ギリシアにおいては、エコノミーの語源がオイコス(家)であるように、オイコス(家)こそが経済的な場であった。家からの逃避はまさに経済からの逃避であるが、寧ろそこでこそ真のお笑い=芸術が追求できるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
コンセプトとコンセントをかけた親父ギャグ、という所で解釈を止めてはいけない。我々は皆なんらかの「concept(概念)」に基づいて世界を解釈する。哲学者達も、多くの概念を創り出し世界を解釈してきた…プラトンの「イデア」、ニーチェの「力への意志」など…では、小梅氏は? twitter.com/dayukoume/stat…
厳密な「南」は存在するのだろうか。南からほんの少しでも西に向いていたら、それは厳密な意味での「南」ではない。このような意味で小梅氏は、「南」という概念をイデア的概念とし、我々が「南」と呼ぶものは厳密には「南南南…西」であったり、「南南南…東」であったりすると述べたのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 『監獄の誕生』を描いたフーコーは、パノプティコンのモデルに着想を得て、不可視の他者の眼差しが社会領域に於いて我々を規律化し、支配しているのだと指摘した。インスタ映えの手段に用いられるタピオカを、適切に食す事が規律化される…小梅氏は、タピオカランドもまた刑務所なのだと指摘したのだ。
コウメ太夫かコウメAI太夫かクイズ 10問中 6問 正解しました! 【 ①○ ②○ ③✕ ④✕ ⑤✕ ⑥✕ ⑦○ ⑧○ ⑨○ ⑩○ 】 #クイズメーカー quiz-maker.site/quiz/play/Ue5e…
我々は、自分が「何者か」を社会との関係に於いて措定する。家族という社会単位なら、「私」はAの子で、Bの母だといった風に関係的に自己を理解できる。しかし、都市社会は人々を均一化してしまう。買い物に出かけた小梅氏は、都市社会という空間にて自身が「何者でもなくなっていく」事を嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 春が来ないとはどういう事だろう。女神ペルセポネは、一年の1/3を冥府で過ごし、春の訪れと共に春の女神として地上に現れるとされる。さて、これを踏まえると、小梅氏の元に春が到来していない事から、小梅氏が冥界の神である事が分かる。小梅氏は、自身が冥界の神ハデスである事を示したのだ。傑作。
@dayukoume アーレントは人間の不死性について論じ、「活動」を不死性の獲得に向けた営みと見做し、「人々の間にあること」を「生」とした。さて、小梅氏の「活動」たる芸人活動は、小梅氏のファンという「人々」との間で初めて成立する。ファンを失った小梅氏は、「活動」の条件を欠き、“死んだ”のだ。遺作。
私事で大変申し訳ないのですが、このようなダイレクトメッセージが時に送られてきます。小梅氏のツイート並みに難解で大変面白いです。 ダイレクトメッセージは解放していますが、全てのメッセージに対し返答する事は出来ないという事を予めご了承ください。
@dayukoume ダーウィンに影響を受けたスペンサーが提唱した「適者生存」の概念を援用した一作。スペンサーは、生物個体が「生存闘争」を行うとし、そこに進化の原動力を見た。わかめ研究家でもある小梅氏は、「わかめは、他のわかめを“喰らう”」と比喩的に述べ、わかめの生存競争を見事に描き出したのだ。傑作。
大阪大学コウメ太夫研究会さんの『築抄』が大阪大学の学祭にて販売されているようです。 是非皆さんもお買い求めください。 twitter.com/ou_koume/statu…
「時代が時代なら」がポイント。成功者と能力というのは、「時代」に依存する。ここで小梅氏はルッキズムを時代性と結びついて論じるが、その他の能力、例えば芸術や音楽の才などは縄文時代には役に立たない。我々が「実力」を発揮できるのは、その実力がその時代に適応したものであるからなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
九州大学でもコウメ太夫研究会が発足したようです。 次々とコウメ太夫研究会が発足し、益々小梅学研究が深まる事に期待が持てます。 頑張ってください。 twitter.com/QU_Koume/statu…
プラトンの議論を参照するに、我々人間は本来男女に分たれておらず、一つの球状の物だった。しかし、我々は引き裂かれ、「片割れ」を探す、恋に突き動かされる。一体誰が引き裂いたのか?そう、恋の放火魔であるゼウスだ。小梅氏はゼウスが球状の人間を分裂させる様子をシャボン玉に喩え、謳ったのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
ひとつ、問題にしなければならないことは、最近小梅氏がメディアにおいて「哲学的」と、ある種の嘲笑めいた紹介をされている現実があることです。 私自身、この問題の責任の第一人者であるのですが、ここでの「哲学的」は、「意味不明」と同質のものとして扱われていることが問題です。
近年の人文科学においては、「オブジェクト指向存在論」や「アクターネットワーク理論」など、事物に注目する存在論的転回が生じており、そこでモノに魂の存在を認めるアニミズムが注目されている。小梅氏はボックスシーツとの対話を通じて、アニミズムを実践しようとしたが、失敗したのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
近年の小梅氏の作品は確かに「哲学的」と評されますし、小梅氏自身は、その反応を期待して作品を制作している節があります。その責任の一端は私にあります。申し訳ございません。 私個人は、また、数年前の「チンパンジ〜」路線の小梅氏の顔を覗かせてくれると嬉しいと思っているのです。
ウィトゲンシュタインは、人々の言語活動を「言語ゲーム」として捉えた。ここでは、言葉の意味は予め決まったものではなく、状況や使用方法によって決定される。ガールズトークを耳にした小梅氏は、そこでの言語ゲームにおいて、「銀ダラの切り身」について語られている事に気付いたのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume ニーチェは、「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」とし、相対的な歴史観を示した。さて、小梅氏にとって、引退はまだ起きていない出来事だが、それに対し事務所では引退が既に歴史上の事実となっている。歴史や事実を恣意的に解釈する歴史修正主義者に対し小梅氏は、実証主義を掲げ闘うのだ。
F.フクヤマは、『歴史の終焉』において、民主主義と自由経済が勝利し、社会制度の発展が終結するという状況を「歴史の終焉」とした。フクヤマの議論は、ヘーゲル的な弁証法の図式に則っているが、歴史が終焉するとその図式は更新されなくなる。(続) twitter.com/dayukoume/stat…
資本主義の原理を寓話的に描いた作品。資本主義社会では、市場原理によって時に売れない店や企業が淘汰されていく。どれだけ情に訴えかけたとしても、市場のリソースは無限ではないのだ。小梅氏は、市場競争に敗れゆくカレ〜店が情に訴えかける様をありありと描き、その不条理さを畜生と嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 台風の消滅に伴い生じる〈わたし〉の消滅。何故、こんな事が起きるのだろう。先日、三人称の死を一人称の死へと還元した小梅氏は、更に、世の一切を非人称へと…謂わば西田哲学に於る主客未分の純粋経験のように…還元する。〈it〉という非人称的な場から小梅氏は、だんだんと消滅してゆくのだ。傑作。
我々人間が死へと向かっていく存在であることに自覚的になれと説いたのはハイデガーだった。そして小梅氏は、「自らへ向かってくる死」にも自覚的になる。そうめんが喉に詰まる可能性を見出した小梅氏は、流れてくるそうめんを死神に例え、日常に潜む死のリスクを避けるのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…