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@soshina3 @tikuporadio 粗品氏は、小梅氏の作品を「訳がわからん」と切り捨てている。然り。この作品は、訳がわからない…ナンセンスな作品だ。「胃がバヴ〜バヴ〜」という小梅氏が提示した“私的シニフィアン”に対し、そのシニフィエの領域は無かもしれない。だが、その無の領域を模索する事を小梅氏は求めているのでないか。
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「誕生日」が「生誕祭」となる…これは、現代においてはアイドル文化やオタク文化などで見られるが、対象が「推し」といった形で崇拝の対象となっているケースが殆どであろう。では、小梅氏は一体誰に崇拝されているのか。そう、“チクシスト”たちだ。我々チクシストは、小梅氏の生誕を祝うのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume デカルトは、方法的懐疑にて、様々な「疑い得る」物を”消去”していき、最後に考える「私」を自明な存在として打ち立てた。しかし小梅氏の方法論は逆だ。そう、第一に「私」という存在を消去してみせるのだ。小梅氏のチクショ〜去法は、「自明な私」というデカルトの第一原理に立ち向かうのだ。傑作。
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@dayukoume 自分を捨てるとは如何なることか。「自我」や、「意識」を想定する考えは、西洋哲学に於いては主流であるが、仏教思想の文脈から「自分」という前提を捨てる事を提案した小梅氏は、西洋哲学の伝統を破壊し、「我」を前提とする哲学に対し、「〈我〉の断捨離をせよ!」と堂々たる批判をしたのだ。傑作。
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非常に優れた論考です。小梅氏の作品の類型化や集合論を用いての分析など、小梅学の研究として新たな試みが為されています。また、小梅氏を中心とした社会構造をフラクタル構造と指摘する社会学的考察も見事でした。 twitter.com/kenhori2/statu…
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「何が」溶けるのだろうか。主語が省略される小梅氏の文章は、読者にその解釈を委ねる。シュルレアリスムの形式を取ることを踏まえれば、ブルトンの著作『溶ける魚』を念頭に置いているのだろう。小梅氏にとって菅総理の政治は、期待することは何もない、シュルレアリスム的に“溶けて“いくものなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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我々の身体は有機的な繋がりの元に作用するのだが、その一部が切り離されると、それは「私」の一部分ではなくなる。ここに部分的な死が生じる。「顔の〜部」を切り離した小梅氏は、それが「ありんこ」等によって処理される様を見事に描写し、経験不可能な「一人称の死」を部分的に経験したのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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学部生の皆さんはそろそろ卒論を書き始めなければならない時期ですが、いかがお過ごしでしょうか。
もし、卒論のテーマが決まっていないのであればコウメ太夫氏を卒論のテーマに扱ってみるのも面白いかもしれません。
是非ご一考ください。
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ターザンが森の木々をぶら下がって移動する技術は、マネ〜リテラシ〜とは対極にある。マネ〜リテラシ〜を高めれば高める程に、資本主義の内面化を行なってしまう。寧ろそれは、資本主義のメタ的認知を不可能にしてしまうのでないか。そこで小梅氏は”野生の思考”を行うため、タ〜ザンの技術を磨くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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死を刻印された器~コウメ太夫論序説|谷頭 和希|note(ノート) note.mu/improtanigashi…
素晴らしい小論です。小梅氏のテクスト読解に於ける「死」というモティーフについて私自身再考の必要を感じました。
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@dayukoume 「バヴ〜バヴ〜」とは何か。爪の垢と赤ちゃんをかけている事が分かったとしても、結局その意味は分からない。バヴ〜バヴ〜は、私的言語をナンセンスとしたウィトゲンシュタインの議論に於ける「感覚S」と同様、ナンセンスな私的言語だが、小梅氏は、ナンセンスな言葉の詩的効果を敢えて模索するのだ。
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ヴィヴェイロス・デ・カストロの議論を踏まえた作品。人間が血とよぶ物はジャガーにとってはビールであり、我々にとって腐肉にわく虫であるものはハゲワシにとっては焼き魚であり...というように、世界は多様なパースペクティブから成り立つ。小梅氏は、「イナゴ」として人間を食すのだ。猟奇的作品。 twitter.com/dayukoume/stat…
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「ミーム」の語源の一つはギリシア語の「ミメーシス」であって、これは模倣という意味がある。新たなネタを作る時に、”以前の”コウメ太夫を模倣する…小梅氏は、「コウメ太夫さん」のネタを真似て、再帰的に増殖する。小梅氏は、ミームとしてのコウメ太夫の絶え間ない自己増殖を大胆に描くのだ。傑作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume 窶ェ繧ィ繧ッ繝ェ繝√Η繝シ繝ォ縺ョ鬆伜沺縺ォ迴セ繧後k縲梧枚蟄怜喧縺代?阪□縺後?√◎縺ョ諢丞峙縺輔l縺滓э蜻ウ蜀?ョケ縺ッ螟壹¥縺ョ蝣エ蜷域嶌縺肴焔縺ォ縺励°蛻?°繧峨↑縺??や?ヲ蜷ヲ縲∝ー乗「?ー上?窶應ス輔b諢丞峙縺励※縺?↑縺??昴?縺ァ縺ッ縺ェ縺?°?溷ッセ雎。諤ァ繧貞?縺乗戟縺溘〓譛ャ
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「コウメ太夫」を「派手な着物」で置き換えるような修辞法は換喩(メトニミー)である。最後に「ノーギャラチクショー!」と述べているように、小梅氏にとって、派手な着物を着た人物は全員「コウメ太夫」ということになる。「コウメ太夫」は、メトニミーを通じ、個を超え増殖し続けていくのだ。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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現在世界人口が約78億人と言われているので、およそ最下位に近いが、何故こうなってしまったのか。そう、「世界中の誰よりも」という言葉は、実際は「私の知っている誰よりも」という意味なのである。我々は、自身の「知」の枠組みから逃れられず、常に「既知」の枠組みから事象を判断してしまうのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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ここには永遠性の問題がある。我々は、「永遠存在」としての「友達」になることが出来るのだろうか。小梅氏は、我々は決して「永遠存在」となることは出来ないと断定する。友人関係が8分で終了したことを嘆く小梅氏は、我々はイデア的存在者ではないとし、友人関係が有限であることを強調するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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そんなわけはないと思うが、この時「カツ丼は誰にとっての公園であるか?」を問わなければならない。緑無きカツ丼に、三つ葉という「自然」が加わった途端、カツの衣はさも土のように振る舞う…その瞬間、カツ丼はまさに「ハエ」のような生き物にとって、公園の役割を果たすアフォーダンスと化すのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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全ての日が木曜日になっている。どのような意味があるのだろう。我々がよく知る象徴的な「木曜日」といえば…そう、ウォール街大暴落の「暗黒の木曜日」だ。今現在、そのような悲惨な状況は見当たらないが、もしかするとこれは、小梅氏なりの「暗黒の木曜日」再来の予言と警鐘かもしれない。問題作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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人類は有機性と、それに伴う「死」の呪いにかけられている。人生は有限なのだ。しかし小梅氏は、その有限性の克服へ乗り出す。ハラウェイの「サイボーグ宣言」よろしく、「サイヴォ〜グ」と化した小梅氏であったが、その機械化も「期間限定」と、有限性から逃れられぬことに畜生と涙したのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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めぼしい梅干しが無いということは、梅干しが平準化されていることが示されている。工業的な「大量生産」によって商品が次々と生産される現代社会では、商品の差異は無い方がよいものとなる。小梅氏は、商品品質の平準化がめぼしいものを失わせてしまうとして、梅干しの個性が失われたことを嘆くのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume 「虹と二時」この音韻的同一性から時計を見た小梅氏…「もしや、今は二時では…!?」ここで二時なら、ユング的シンクロニシティの概念、共時性が示されていた筈だ。だが、実際には三時だった。この非共時性が示された瞬間、小梅氏の哲学が暗に前提していたユングの概念が崩壊したのだ。歴史的作品。
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@dayukoume “私”を解体する「死」…そも、「私は死んだ」などという文章はナンセンスではないか。然り、だが、だとしても!小梅氏は幾度となく象徴的な死を繰り返すのだ。当に“清水の舞台から飛び降りる”が如く、決死の覚悟で自身の死をテクスト上で繰り返す氏は、死者を疎外する現代社会に反旗を翻すのだ。傑作。