「チ▽コ」に注目。この▽は伏字でもあるが、象徴的男性器(ファルス)の欠如を表しているのでないか。ここで問題なのは、(精神分析的な意味での)象徴的ファルスが去勢されているかどうかである。小梅氏は、幼児期に去勢される象徴的男性器が、無意識の底に沈んでいる事をポコ”沈“という表現で示すのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 哲学的困難は何から生じるのだろう。ウィトゲンシュタインは、「文法的錯誤」をその原因と見做し、哲学の課題をその治療とした。「小梅氏が寒い」と、「最強寒波が寒い」は文法形式は全く同じ「xが寒い」だが、意味は全く違う。この混同が文法的錯誤だ。小梅氏は敢えて文法的錯誤を犯してみせたのだ。
田舎の町は、バウマンの用語を使えば、ソリッド・モダニティ、つまり固定的、保守的な傾向が強いことがあるだろう。ソリッドな体制は、リキッドな動きに対し、時に暴力性を発揮してしまう。田舎の町のひとは、対外的な脅威(=小梅氏)に対し、暴力を振るうことで、ソリッド・モダニティを堅守するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume 「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。」 ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』にてこう述べた。 愛(エロース)は、穏やかな、何気ない日常に一滴の毒薬を落とす…日常を送りながらも胸を傷ませた小梅氏は、恋愛のディスクールを綴り、その狂気を描いてみせたのだ。
@dayukoume レヴィナスは、愛撫行為を食人の疑似行為とした。フェラチオなどはまさにその例で、疑似的に男性器を“食す”のだ。性器がバナナやアイスなどに喩えられるのはこの原理に因る。さて、小梅氏は、床に寝ている男性の、“朝の男性器”を“タケノコ”と喩えている。小梅氏が何をしたか言うまでもない。駄作。
@dayukoume 「備えあれば患いなし」は、孔子が著した『書経』の一節だが、この一節に対し小梅氏は大胆な解釈を行う。そう、「報・連・相」だ。『書経』に於ける「備え」を報連相と解釈する小梅氏は、東洋古代思想に於いて既に報連相精神が育まれていたと指摘し、その精神が未だ根付かぬ現代社会を畜生と嘆くのだ。
@dayukoume 最早哲学的解釈以前の問題である。本格的にシュルレアリスムの境地に入った小梅氏の作品を解釈すること自体が誤りなのではないか。小梅氏は我々を嘲笑い続ける。まいにち「チクショー」を叫ぶべきなのは、読者の方かもしれない。
@dayukoume 『もののけ姫』を視聴していた小梅氏は、アシタカの台詞を聞き、疑問符を浮かべた。─我々は一体何処から来たのだろうか─。“母の胎内”というのは確かに一つの解答ではあるが、では、我々は“生”を得る以前、一体どこに居たのだろう。“どこでもない“のであれば、何故我々は生きているのだろうか。傑作。
@dayukoume 我々は、「食」を享受する事により生存が可能になるが、「食」の享受は、本来的に不確実性を伴う行為である。本来であればその摂取が不確実な「食」を、さも当然の様に享受している事態を年の瀬に気付いた小梅氏は、そばを生命線たる命綱に例え、一年を過ごせたのは食のお陰なのだ!と感激したのだ。
@dayukoume 入退場は同時に起こらない!確かに、“時間が一方的に流れるならば”…そう言える。実は小梅氏は時間の対称性を考えているのだ。A地点とB地点の間に立った瞬間、小梅氏は、「対称的な時間」の元、AからBへの入場とBからAへの退場の二つの状態にあると言えるのだ。小梅氏の時間概念が明らかになった傑作。
@dayukoume 狂乱した小梅氏は、そこで墓石に手をぶつけ、「痛み」を知覚する。そう、小梅氏は、「痛み」こそを生きている証左とし、改めて“生”を自覚したのであった。生を自覚し、自身を見失う事無く、力強く生きよ!と説く傑作。
@dayukoume チ◯◯ョ◯ならば、「ク,シ,ウ」が入るに決まっている…そうだろうか。これは既に大阪大学の皆さんが指摘している事だが、本作は、読者の多様な解釈可能性を積極的に肯定するバルトのテクスト論を踏まえた作品である。或いは、まいチクそのものがテクスト論的試作だと小梅氏は主張しているのだ。傑作。
@dayukoume ・小梅氏と無主体論についての補足 〈私〉は、哲学に於いて暗に前提される事が多い概念です。デカルトの「コギト」などは典型的な例ですね。 ですが、小梅氏の作品は主語が存在しません。「我思う」の「我」が自明視されるデカルトへの批判が小梅氏の思想に暗に現れている事は自明でしょう。
@dayukoume 「勤労が無い」という事は、奴隷らが全ての労働を担う古代ギリシャのポリス社会を示しており、文章に注釈を加えると、「(嘗ては知識階級にとって)勤労すら無かった!畜生共!」となる。小梅氏は、「勤労感謝の日」を、労働概念を普遍化するイデオロギー装置と指摘し、古代ギリシャに還れと訴えたのだ。
小梅氏の #まいにちチクショー が途切れる恐れがあります。
ここでの「白塗り」を小梅氏だと考えると、小梅氏が死んでも「まいチク」は残り続ける、という意味に解せそうだが、下の句に疑問が残る。「この世とあの世もいってかえって」と、小梅氏が生と死を繰り返していることが示されているのだ。一体どういうことか。 twitter.com/dayukoume/stat…
ラヴクラフトが創造した独自の神話体系「クトゥルフ神話」には外宇宙に存在する「外なる神」と呼ばれる神が存在する。外なる神たる小梅氏が開会式に登場しないのは、外なる神と人々の接触が狂気を生むからである。開会式が無事に終わったのは、小梅氏が狂気をもたらなさなかったからである。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
何故小梅氏が「機械(怪)人形」の役を任されているのだろうか。小梅氏の「動き」を思い返してみよう。小梅氏の「ぎこちなさ」は、さも出来の悪い「ロボット」のようだ。岡田美智男の述べる〈弱いロボット〉のような小梅氏のあり方は、我々にとって、機械的であり、奇怪に見えるものなのだろう。 twitter.com/airachaaaaaan/…
異類婚姻譚を描いた作品。現代の日本人は、多くの場合人間と動物を分たれたものとして思考するが、昔話の世界ではごくごく自然に、動物は人間として振る舞うことできる。同時に、このような思考様式で現実の世界を認識することも可能な筈だ。小梅氏は、”畜生”をヒトとして扱い、種族を越境するのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume またしても「死」についての作品。本作で小梅氏は、「死にかけ」ている。思想家バタイユは、「死なずに死ぬ」、「部分的な死」、といった表現を好んで用いていた。生物学的死とは異なる主体の解体(死)を、陶酔に結びつけたバタイユの影響を受けた小梅氏は、幾度となく“死なずに死ぬ”のだ。傑作。
@dayukoume フーコーは、近代以降、医学が目前の個人を病気の苦悩から解放するのではなく、「死ぬ病人」を統計的に減らすことを目的としているのだと分析した。W杯を麻酔代わりに視聴させられた小梅氏は、麻酔の経費を削減する医師を畜生!と非難し、改めてフーコーの述べる生命政治の構造を明らかにしたのだ。
@dayukoume 50センチの乳首とは如何なる事だろうか。実は小梅氏は、身体改造により乳首を拡張し、一般的には生活の場で用いられない乳首を「道具」としたのだ。小梅氏は、身体を拡張・改造し、本来道具に依存する行為を身体のみで行わんとする、「身体=道具」という新たな価値観を大胆にも示したのだ。挑戦作。
ラヴクラフトら作家たちの間で作られた創作神話「クトゥルフ神話」をモチーフにした作品。宇宙の外側に住む小梅氏は、クトゥルフ神話における「外なる神」である可能性が高い。今作では、「外なる神」の視点から膨張する宇宙と、宇宙の外側との拮抗が描かれているのだ。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
@dayukoume ホロン的ヒエラルキーに関する議論を先日行った小梅氏。そのヒエラルキーの下層部は当然下層に向けて開かれている…だが、その構造は無限なのだろうか。構造論を研究し、ヒエラルキーは下方に於いて有限である事を突き止めた小梅氏は、自身がそこに位置付けられる可能性を憂慮し、畜生と嘆くのだ。
note.com/koume_philo/n/… こちらのツイートですが、noteにて考察を試みてみました。 twitter.com/dayukoume/stat…