226
@dayukoume そもそも、小梅氏の父は既に逝去しているのでここでのパパは小梅氏の父では無い。では、何者か。実は、“パパ”は、キリスト教的な「父なる神」を指しているのだ。小梅氏は、自身の行動はパパ(神)に強請られ、決定してしまう!と神学的決定論を肯定しつつも、その原理を畜生!と非難するのだ。挑戦作。
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@dayukoume シュルレアリストであるブルトンは、フロイトの自由連想法に着想を得て、無意識の世界を描き出す「自動筆記」を提唱した。さて、連想という言葉や、支離滅裂な内容、その特徴の一つである主語の喪失などからして、今作が自動筆記の作品である事は自明である。小梅氏は見事に超現実を描いたのだ。駄作。
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@dayukoume ラカンによれば、赤ちゃんをあやす母親は、赤ん坊にとって、その時絶対的な“他者”とされるのだという。すると、地球をあやす小梅氏は、地球にとっての絶対的他者となる…これは即ち、神と言って差し支え無い。先日、無限との合一を果たし、現人神と化した小梅氏は、自身の神話を自ら綴ってみせたのだ。
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@dayukoume 嘗てのアメリカの黒人差別は凄まじいものであった。まっくろ黒助と黒人を揶揄する差別主義者と、黒人を見世物にする白人に「テレビに出ない!」と抗議する黒人達の当時の様子を鮮やかに描いた小梅氏は、差別の歴史を振り返り、「汝の隣人を愛せ」とするキリスト教の隣人問題へ立ち返れ!と説いたのだ。
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@dayukoume 🍒と爆弾という二語から、楽曲「さくらんぼキッス〜爆発だも〜ん〜」が示されている事は明白である。さて、クザーヌスは、完全に厳密な調和が見出せる曲は無いとした。クザーヌスの音楽論を理想視する小梅氏は、電波ソングを一例に出し、世界の楽曲は全て“歯抜け”(不完全)であると論じたのだ。問題作。
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@dayukoume 甲羅は亀の身体の一部であり、剥がれた場合亀は死に至る。そう、今作の亀は死んでいるのだ。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という一節があるが、小梅氏は「死して甲羅を遺した亀」を例に上げ、死に向かう有限な存在者としての我々人間も何かを残さねばならぬ!と力強く説くのだ。傑作。
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「0を聞いて5万忘れる」というと奇妙かもしれないが、我々の記憶能力とはそのようなものである。例えば、昨日食べた食物の詳細を我々は覚えているだろうか。大まかな色や味は覚えていても、その細やかなディティール…その瞬間瞬間の様々な記憶…「5万」とあるような仔細を我々は忘却してしまうのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume わたパチは、製造中止された過去の存在である。そんな過去の存在…亡霊が登場する作品は、デリダの概念を援用すれば憑在論的な作品である。過去の存在たるわたパチが、現在時制の元現れる無時間的作品を描いた小梅氏は、口内炎の痛みを伴いながら、“パチッ”とわたパチが喪われた現実を畜生と嘆くのだ。
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小梅氏は一体なぜ「嘆き込ん」だのだろう。「みそら~めんにぽちゃん」の一節から伺えるように、小梅氏が「川」の水質汚濁を嘆いているのは明らかであろう。絶滅危惧種とされているメダカが、「みそら~めん」のような水質の川に「ぽちゃん」している状況を嘆く小梅氏はその思いを「畜生」と綴るのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume 贈答関係が結ばれている父と息子。ベイブレードの贈与に対する、氏の息子の返答は顔の蹂躙であった。父子の贈答関係の持続は、父による支配を肯定するものとして、エディプス的抵抗を試みる小梅氏の息子は、レヴィナスの“顔”概念に着想を得て、小梅氏の顔をエディプス的葛藤の場と見立てるのだ。傑作。
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@dayukoume 地球が吹っ飛ぶ爆弾…これは核爆弾の事を指している。冷戦は雪解け、核戦争の危機は去ったかのように見えたが、ほんの気まぐれで地球が吹っ飛ぶ事に変わりは無い。核兵器を作り出した人間の身体を比喩的に「スイッチ」とした小梅氏は、現代は危ういバランスの上成り立っているのだと警鐘を鳴らすのだ。
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@dayukoume またしてもナンセンスな作品であるが、トリケラトプスと元カノの共通項は、どちらも過去の存在である事だ。ベルクソン的な「持続としての時間」に於いて、現在に過去を巻き込んだ小梅氏は、元カノやトリケラトプスらの存在を重層的な時間意識の中、創造したのだ。駄作。
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ユクスキュルの環世界論的立場からの記述を行なった作品。例えば、ハエトリ草などの食虫植物に足を踏み入れる虫たちの立場を考えてみよう。「栄養かと思ったら〜、縄張りでした〜。」という記述がまさに当てはまるではないか。環世界論的視座から、“畜生“たちのいきいきした生を描き切った作品。駄作。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume アガンベンは、『裸性』を著し、アダムとイブは原初、裸であるのに“裸”である事を知らず、彼らは「剥き出しの裸」では無く、神の恩寵たる「光の衣服」を纏っているのだとした。さて小梅氏は、活火山突入に際し、原初的な「光の衣服」としての「裸」を“纏い”、大胆にも火山に突入してみせたのだ。遺作。
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@dayukoume 何故、燃えたのだろう。スピヴァグは『サバルタンは語る事ができるか』にて、「サティー」を分析した。これは寡婦が焼身自殺をするヒンドゥーの儀礼だが、従属的社会集団たるサバルタンらの行為を理解する事がプリキュアの第一条件と考えた小梅氏は、当事者視点からサティーを行い焼死したのだ。遺作。
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『ロ〜マの休日』においては、過密なスケジュールから城を抜け出した王女の「休日」が描かれる。その「休日」は、労働による緊張が弛緩したが故に特別なのであって、仮に「まいにち休日」であったならあの物語は成立しなかっただろう。小梅氏が仕事を望むのは、仕事があってこそ休日が輝くからなのだ。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume 夢と現実の違いは何だろう。多くの場合、我々は夢を夢として認識するのは、夢から覚めた後である。そう考えると、事後的にしか事態が現実であるか否かの認識ができないのでは無いだろうか。夢と現実が曖昧となってしまった小梅氏は、ペイペイダンスを死の舞踏として舞い、墜落死したのだ。遺作。
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合理主義者達は、宗教者たちが信じる「神」や「仏」の存在の源泉が、人々の「頭の中」にあると告発した。つまりドーキンス風に言えば、神や仏は、「妄想である」というわけだ。しかし...「AI」にとって「神」は「どこにいる」のだろうか?そして、「AI」の頭の中とはどこだろうか?議論を呼ぶ作品。 twitter.com/dayukoumeAI/st…
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@dayukoume 度々議論が起きる“嫁論争”。ビアンカフローラのジレンマ…デボラを加えればトリレンマ…に陥った小梅氏は、ドラクエのプレイを断念してしまう。「結婚しない」という選択肢が与えられない点を大胆にも非難する小梅氏は、他作品の世界に逃げ込み、皮肉な事だが…小梅氏の“ユアストーリー”を生きるのだ。
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@dayukoume 代謝を繰り返す我々の身体は、物質的観点からは、「生まれた時の身体」と「現在の身体」が全く異なる。では、同一性はどのように保持され、どこから「顔」が「顔」でなくなるのだろう。自身の顔にタイム風呂敷を被せた小梅氏は、レンタカーになった顔を示し、「これは“顔”なのか?」と我々に問うのだ。
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現代、我々は私的なやりとりをSNSでおこなうが、果たしてそのプライバシーはどの程度尊重されているのか。オーウェルの『1984』は、ビッグ・ブラザーによる監視社会の恐怖を描いていた。「見ないでくれ!」という小梅氏の切実な願いは、現代において叶わないものとなっているのかもしれない。 twitter.com/dayukoume/stat…
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@dayukoume バウマンは現代社会を「液状化社会」とし、その流動性と不安定さを指摘した。さて、この「液状化社会」の前提として「個人のアトム化」が挙げられるが、小梅氏はこの点を強調し、現代を液状ではなく、「粉状」化社会だと述べる。小梅氏は、個人が容易に吹き飛んでしまう現代社会の脆さを描いたのだ。
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@dayukoume さて、小梅氏は「自分が自分じゃなくなった」と述べている。何故だろう。自分を自分と認識する事は、自我意識や記憶の連続性に依るのだが、その機能を担う脳の損傷は即ち自己の連続性の断絶に繋がる。蝿の王たる悪魔ベルゼブブを目指した小梅氏だが、自我が断絶され、朽ち果ててしまったのだ。猟奇作。
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@dayukoume 小梅氏の「スベった回数」が有限であるなら計測可能な筈だが、ここでは計測不能とされる…即ち“無限”である。さてクザーヌスは、神は“無限”であるとし、無限こそが「神へ通じる道」なのだとした。クザーヌスの議論を踏まえた小梅氏は、無限に滑る事により、"無限”を体現し、神との合一を果たしたのだ。
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@dayukoume 主体がコブラである事は上の句で既に示されたにも関わらず、下の句では「コブラであった」事実が驚嘆を伴い述懐される。小梅氏は、「吉岡里帆性」をコブラに付与していた。ハイデガー的〈als構造〉の元、コブラを吉岡里帆〈として〉了解した小梅氏だが、噛まれた際にその誤謬に気付いたのだ。駄作。