かかまつ(@kakamatsukk)さんの人気ツイート(新しい順)

51
「弱き主君は害悪なり」 実は戦はこのときから始まり、終わっていたのだ。 自身を餌とすることに成功したのは信玄の方だった。うちの殿様は弱い。民の評判を気にして野戦に引きずり出され、それでも地の利を生かして追い込む筈がこの有様だ。 「童よ。戦は勝ってから始めるものじゃ」 #どうする家康
52
「これはわしの弱い心じゃ。ここに置いていく」 寅の年・寅の月・寅の日に産まれたとされる家康は、本当は兎年と明かされた。どうすればよいと泣いてばかりいた。しかしもう許されない。 兎を置いて、寅の勇気を纏って彼は踏み出す。もう戻れないかもしれなくても、後ろは振り向かずに。 #どうする家康
53
本多忠勝の数ある逸話の中に、生涯、数多の戦においてもかすり傷ひとつ負わなかったというものがある。 晩年、小刀で彫り物をして指を滑らせ、「傷を負うようでは本多忠勝ももう終わりだ」と呟いたとも。 この大河、逸話をことごとく逸話としてイジり倒すスタンスである。ねえ、神の君。 #どうする家康
54
具足が本当に立派になりました。 藁だらけだった平岩親吉こそこの場にいない(岡崎の信康のそばに)ものの、昔はみな藁を使っていたし、無課金と言われた小平太でさえも。 ……って、大久保忠世の前立てが胡蝶蘭みたいになってます。さすが色男! #どうする家康
55
木戸の透かしは武田菱 普段のアバンと違う赤 そして這い出るムカデ 今日のどうする家康は 武田、武田、武田〜〜です!!!! #どうする家康
56
やってみねば分からぬ!なんて平八郎が言ったと思ったら、我らが井伊万千代が出てきたぜぇーーーーーっっと!!! #どうする家康 #おんな城主直虎
57
一刻を争う退き戦。 そんな中でも忠勝が真っ先に膝をつく。 主に尽くし、主のために死ぬ。 それが彼の望みであったから。 それが女子であろうとも。 #どうする家康
58
古代ギリシャのマラトンの戦い。 勝利を告げる戦士は、鎧姿のまま約40キロを走破し、そのまま息絶えたという。 よく知られるお市の方の逸話が、これまたよく知られるマラソンの起源の逸話を借りて語られる。 信長の軍勢に伝えるための、小豆(あずき)と阿月(あづき)の物語。 #どうする家康
59
双方の家臣が主を止める。 しかしその方法は全く違う。 忠次と数正が家康の腕を取って体で止めるのに対し、藤吉郎は腰を低く、ただ信長の足元に。勝家は中間に割って入るように立つ。 こんなところにも信長の孤独がある。 #どうする家康
60
お前「も」俺を信じぬのか⁉︎ これだけで信長の孤独が鮮明になって辛いのに、 お前の心のうちなど分かるもんか! そう返されて信長が涙をこぼす。 あの、信長が。 「我が弟」と見込んだ長政と家康、 ふたりにさえも己の義を理解されぬ孤独に堕ちて。 #どうする家康
61
古田新太さんの酔っぱらい演技かと思ったけれど、足を引きずるとか、急な眠気に襲われるとか、駿馬より食べ物に目がないとか、これまで氏真の妻・糸を足の悪い設定にしたりした今大河では、足利義昭も独自の糖尿病の設定であったりしますか? #どうする家康
62
「遠慮なくお食べ、阿月」 「あづきと申すか?」 歴史好きならニヤリとする名前。 お市が夫浅井長政の裏切りを密かに知らせるため、兄信長に届けたという、袋の鼠ならぬ「袋の小豆」。 後世の創作と言われるこのエピソードを、小豆ではなく阿月に変えてさらなる創作とするのでしょうか。 #どうする家康
63
「一度でいいから、腹を割って心ゆくまで、語り合ってみとうござった」 過去形で語る浅井長政。 もうそんな日は来ないことを知っているのですね。 もう自分の進む道を決めてしまっているのですね。 #どうする家康
64
「手は出していない、足が少し出ただけ」と言い訳をする平八郎。 「足も出していない、見てただけ」と言う小平太はといえば、羽交締めにして平八郎の蹴りの標的にさせるわ、見つめすぎて頭突きするわ、コンビで大活躍。 #どうする家康
65
織田のあやつり人形として描かれている将軍。 足利義昭は長く信長の傀儡(かいらい)政権と言われていましたが、最近の学説ではそれが覆されようとしています。 今大河でナレーションは敢えて『神君』の『伝説』を描いていますから、これも「本当は違うよ!」と示しているのでしょうか。 #どうする家康
66
溝端淳平さんは語っている。 若い頃、人気が出てすぐにどんどん主演に抜擢されるようになったとき、人徳も才能もない、実力が追いついてない、自分の身の丈にあっていないという葛藤がすごくあったと。 大河史上最高に哀しい今川氏真は、迫真の演技は、これを血肉に生まれたんだ。 #どうする家康
67
今川家が桶狭間で信長に滅ぼされたと思いこんでいる人は多いだろう。私もそうだった。それは違うと学んだのは、教科書ではなく大河ドラマだった。 氏真はその素養から、京で貴族と武士をつなぐ役目を担い、妻ともども天寿を全うした。命のやりとりをする戦国で、ある意味勝ち組である。 #どうする家康
68
どんな思いで瀬名への手紙を書き、 どんな思いで焼け落ちる城に残していったのか。 今川への恩。美しかった駿府。 互いの夫の罪。許せない。あの頃を取り戻す。 でも、ただ瀬名に会いたい。会いたい。 だから渡せない。瀬名を苦しめるから。 ただ凛と咲いて死んだだけ。すぐに忘れて。 #どうする家康
69
金色のこもれびの中きゃっきゃしていたのに、信玄が登場した途端、周囲ががらっと深い緑に変わります。 見上げればおびただしい数の忍びたち。見えるだけでも20人。 ざあっと風の音がして彼らが去ると、再び日がさします。 一体どれだけの忍びが夕日を遮っていたのでしょうか。 #どうする家康
70
遠江で女城主で尼削ぎで、瀬名と繋がりがあって椿って… そうそう、そんな藍色の着物もたまにお召しでしたよね… それでなくても今川だお瀬名様だと忙しい井戸の底の民がどーーーーんと吹き上がる第11回。 #どうする家康 #おんな城主直虎
71
霧がかかり、周囲が見通せぬ駿府。 偉大な父・義元亡き後、領内では今川家からの離反が相次いでいました。 信長の城が何とも禍々しいことは家康の心象風景だからだと解説されていますが、このシーンも、やつれ果て一歩先をも見通せない氏真の辛い心のうちを表しているのでしょうか。 #どうする家康
72
これはあのときの吾妻鏡‼︎ 鎌倉殿最終回で吾妻鏡を読む松潤家康がフライングでサプライズ登場。テロップでは永禄7年と示されました。 今回の「10ヶ月後」、次女の督姫(ふう)が産まれたのは永禄8年と伝わります。 あのテロップの年にはやはり意味があったのですね。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
73
少し物悲しい海老すくいのシーンなんだけど、〽️鮒、鮎、鮒、鮎〜でドリフのヒゲダンスになっている三河武士の皆さん。 始まりで入るカウントを一生懸命取る小平太とか、皆が笑顔の中で真面目な顔で付いていく平八郎(参加するんだ)とか、まだ慣れてない若者コンビが可愛すぎる。 #どうする家康
74
よく知られた話なのでネタバレしてしまうけれど、本多正信はこの後帰参を許され、武勇に優れた家臣団の中で異彩を放つ参謀として重用されます。 家康の心を最もよく理解していたとも伝わりますが、家康が亡くなったのが元和2年4月、そのわずか2ヶ月後に亡くなった佐渡。ズッ友かよ! #どうする家康
75
山田裕貴平八郎忠勝が脱いでいてそれどころではないのはよくよく承知しておりますが、小平太と平八郎に文をもたらした遊び女は着物の柄の違いでも分かるように、それぞれ違う方。といっても実の姉妹。 天翔愛さんと天翔天音さんは、今大河で信長の父を演じた藤岡弘、さんの御息女です。 #どうする家康