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ナチスはイメージ戦略が上手いので有名だけど、ヒトラーの肖像画ないしは写真を置く位置に関しても指導してて、見下ろすような高さはNG。目線は労働者に合わせるようにと命じてる。
権威性を感じさせるより、親しみを覚えさせようとしたわけで、笑顔だったり、子供と触れ合ってる写真が使われた。
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現代人までコロッと引っ掛けちゃうんだから、同時代人ならさらに効いたでしょうね。
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無類のコーラ好きである連合軍総司令官アイゼンハワー元帥に勧められて飲んでみたところ、ジューコフは一撃でコーラに魅了された。
しかし戦後、米ソの外交関係は悪化。アメリカの象徴とも言えるコカ・コーラは輸入を禁じられる。飲みたくても飲めないジューコフ。元帥で国防大臣なのに。
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かつての戦友ジューコフのためのアメリカからの好意は厳格な検査を全て特別扱いでパスし、まるで重要物質であるかの如くソ連邦元帥のもとへと届けられた。こうしてジューコフは自宅で思う存分コーラを楽しむことができたのね。
しかしこれはジューコフの個人的な楽しみに過ぎなかった。
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次にソ連の要人を魅了したのはペプシだった。
1959年、モスクワで開催されたアメリカ産業博覧会で時の書記長だったフルシチョフにペプシ・コーラが振る舞われる(もちろんペプシコ社が後ろからプッシュしてた)。
フルシチョフは大いにこの飲み物を気に入り、たちまち半ダース開けた。げっぷ。
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ペプシコ社はこの1幕を宣伝に用い、自社のキャッチフレーズである『人と交わろう、ペプシを飲もう』に引っ掛けて、『フルシチョフはペプシと交わりたい』と広告を打った。コカ・コーラ社は歯噛みする。先に手をつけたのは自分達なのに!
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ジューコフのささやかな楽しみに終わったコカ・コーラと違ってペプシはキチンと販売権を得た。ただしソ連の通貨ルーブルは海外への持ち出しを認めてなかったので、対価は物々交換となり、コーラの代わりにペプシコはウォッカを入手し、その販売権を得た。
ソ連市場にペプシは食い込む。
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やがて1989年、ソ連崩壊手前における取り引きでは、なんとコーラの対価としてペプシコは戦艦3隻と17隻の潜水艦まで得るに至る。無論全部退役したスクラップとしてだけど、ペプシコは時のアメリカ大統領に誇らしげにこう言った。
「我々はあなた方よりも速くソ連に軍縮をさせている」
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あれはアメリカの手先だ象徴だと忌み嫌っても、好きなものは好きだから嫌えるもんじゃないわね。
つくづく、コーラというのは魔性の飲み物だと思うわ。鉄のカーテンをも物ともしない、コーラこそは世界で最も愛された飲み物でしょうね。
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大戦中の経緯はこんな感じ。 twitter.com/elizabeth_munh…
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アメリカ兵の多くはコーラを胸に戦死した。 twitter.com/elizabeth_munh…
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コーラの他のアメリカ魂の話もひとつ。
1920年から1933年まで、アメリカは壮大な社会実験となる禁酒法が施行されてた。文字通り、一切の酒を飲んではならぬという法律ね
そうは言っても飲みたい人は飲みたいから却って密造酒が出回り、ギャングの資金源に酒はなってしまう。しかし市場から酒は消えた
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酒場がなくなったので仕方なく、ギャングとお近づきになりたくない普通の人たちはソーダ・バーに行った。
この際、ソーダの上にまだ目新しいアイスクリームが載せられたんだけど、アルコールがないなら甘味とばかりにアメリカ人達はアイスクリームにハマった。アイスクリーム需要は急増。
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世界最大のアイスクリーム消費国となったアメリカはアイスクリーム需要が完全に定着。
やがて二次大戦が起こると、前線の兵士たちにいかにアイスクリームを提供するかは士気を維持する観点から大真面目な議題になった。
いかなアメリカとは言えまだアイスクリーム製造機は貴重。
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その原材料を保管するための冷蔵庫等を考えると、軍艦、それも大型の戦艦や空母くらいしか搭載できない。
こうした事から建造されたのが、アイスクリーム・バラージ。アイスクリームを作る専用の艀ね。1日あたり1900Lのアイスクリームを製造する能力がある軍船。
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戦艦や空母でもアイスクリーム製造機の数は限られてるので、その前には常に長蛇の列が出来た。
不文律のルールとして、この列は階級を問わず横入り禁止であり、上級将校とは言えいち兵卒の後ろに並ばねばならなかった。
しかし、ある日そのルールを知らない士官が当然のように横入りしようとする。
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イラッとする兵卒、下士官。そんな中、後ろから声がかかった。
「順番を守れよ!」
誰だ!? と気色ばんで新入り士官が振り返ると、そこにいたのはウィリアム・ハルゼー大将。
機動艦隊を率いる提督で、対日戦の英雄。そんな人でも律儀に順番を守ってた。
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「頼むよ……」
キレやすい事で有名なハルゼー提督がゆっくりそう言うと、士官達はすごすごと最後尾に並び直した。
アイスクリームもまた、アメリカ軍の士気を支えてたし、提督と言えどもアイスクリームの前には平等だったのね。
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以後、バークは日本の独立復帰と、その要となる海上自衛隊の創設に奔走し、旭日大綬章を授けられる事になる。
海軍軍令部長にまで昇進し、数多の栄光に包まれ、各国から勲章を得ていたバークだけど、死の際に身につけていたのは旭日大綬章だけだった。それくらい日本のことが好きだった。
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陸戦でも、直接敵と対峙しない砲兵が差別的な感情を持ちがちだった一方、実際に銃火を交わす歩兵隊では日米両軍ともに敵国の国民の勇敢さに感動して差別心を捨てるケースは多い。
勇者に敬意を払うのは万国共通ね。
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