早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(古い順)

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昭和20年3月10日の東京大空襲は、民間人を標的とした無差別爆撃で国際法違反。しかし、後の東京裁判では全くの不問に付された。空襲の指揮官だったカーチス・ルメイは後にこう語っている。「もし、われわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」
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4月7日は戦艦「大和」の命日。世界一の性能を誇った大和は、沖縄防衛のため水上特攻を試み、坊ノ岬沖にて撃沈。乗員3332人の内、生存者はわずか276人だった。以下は臼淵磐哨戒長の言葉。「敗れて目覚める(略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」。合掌。
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4月22日は「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんの命日。知覧町の特攻基地の近くで食堂を営んでいたトメさんは、多くの特攻隊員から慕われた。勝又勝雄少尉は「俺の余した30年分の寿命はおばちゃんにあげるから」と言い残して出撃した。トメさんは戦後、慰霊や鎮魂に努めながら89歳まで生きた。合掌。
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陸上自衛隊のヘリコプター事故が報じられていますが、実は自衛隊では毎年、殉職者が出ています。令和4年度の自衛隊殉職隊員追悼式で新たに追悼されたのは35柱。殉職隊員の累計は2000人以上に及びます。彼らのような存在があって、我々の日常は保たれています。合掌。
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「和を以て貴しとなす」という第一条が有名な十七条憲法ですが、第十条「共に是れ凡夫のみ(人はみな不完全で欠点だらけ)」の一節も趣き深い。だからこそ「和を以て貴しとなす」なのでしょう。これをわざわざ憲法に書き込むのも日本人らしい知恵と感性。やはり日本人の民族性に寄り添った憲法が良い。
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5月11日は多くの特攻隊員が散華された日。その一人、倉元利雄少尉には身重の妻がいた。彼はこう綴った。「愛児よ もしおもとが男子であったなら御父様に負けない立派な日本人になれ。もしおもとが女子であったなら気立てのやさしい女性になってくれ」。生まれた子は女児。優しい女性になったであろう。
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本日の産経新聞(神奈川版)で報じられた通り、鎌倉の円覚寺に樋口季一郎中将の顕彰碑が建立され、21日に除幕式を迎えます。樋口は満洲で多くのユダヤ難民を救い、占守島の戦いでは北海道をソ連の分断から守った人物。近年、関心を持つ方々が増えています。除幕式には私も参列する予定です。
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終戦後、ソ連軍が千島列島の占守島に侵攻を始めた際、「断乎、反撃せよ」と徹底抗戦を命じたのが樋口季一郎陸軍中将。樋口の決断と現地軍の奮戦の結果、日本は「ソ連による北海道分割」の悪夢から免れた。樋口は満洲駐在時に「ユダヤ難民救出劇」を実現した事でも歴史に名を残す。丁寧に語り継ぎたい。
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樋口季一郎中将の顕彰碑が、鎌倉の円覚寺に建立されます。樋口は多くのユダヤ難民を救出し、占守島の戦いによって日本をソ連の分割から守った人物。以前はほぼ埋もれた存在でしたが、近年では関心を持つ方が増えてきました。樋口がドラマや映画になったら、この国の雰囲気も変わるのではと思います。
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鎌倉の円覚寺に樋口季一郎中将の顕彰碑が建立され、本日、除幕式が執り行われました。今後、この場所が戦争と平和について考える大切な場所となることを願います。鎌倉観光の合間にでも、多くの方々に気軽に足を延ばしていただけたらと思います。
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鎌倉の円覚寺に樋口季一郎中将の顕彰碑が建立されました。かなり広い境内なので分かりづらいかもしれませんが、碑が建つのは龍隠庵の奥の階段を上がった所。揮毫は同庵の太田周文住職。建立を主導したのは吉野稜威雄氏(元平塚市長)らを共同代表とする湘南の有志の会。功績を伝える石碑もあります。
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多くのユダヤ難民を救い、占守島の戦いによって日本をソ連の分断から守った樋口季一郎中将ですが、その功績は長く埋もれてきました。彼が陸軍軍人だったことが最大の理由でしょう。しかし、軍人を一括りにするのではなく、是々非々で評価する姿勢こそ、歴史を大切にするという事ではないでしょうか。
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鎌倉の円覚寺で執り行われた樋口季一郎顕彰碑の除幕式について、産経新聞(神奈川版)が報じてくれました。嬉しい限りです。樋口の生涯には、今を生きる私たちへの貴重な「教訓」が多く含まれていると思います。
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東京への空襲というと3月10日のものが有名ですが、5月25日にも大規模な空襲(山の手大空襲)がありました。500機近くのB29が約3300トンもの焼夷弾を投下。渋谷区の7割以上が焼き尽くされ、3600人あまりの方々が亡くなりました。この空襲のこともぜひ知ってほしいと思います。合掌。
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本日(5月29日)でアッツ島玉砕から80年。2600名以上の方々が亡くなられたこの戦いは、「玉砕」という名が冠された初めての戦闘でもあった。一度は決まった増援計画が反故にされた結果であったが、現地守備隊長の山崎保代大佐は愚痴一つなく、自身の責任と受け止め、祖国の将来を案じて逝った。合掌。
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パラオ・ペリリュー島の大酋長であるイサオ・シゲオさんが、今月8日に亡くなられたとのこと。イサオさんは日本兵の遺骨収集に親身に協力されていました。パラオ取材の際には、優しい眼差しで思いを話してくれました。「一人でも多くの日本兵を祖国に帰してあげたい。彼らのことを忘れないで」。合掌。