早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(古い順)

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通州事件以外にも日本人が虐殺された事件は実は多数あります。例えば小山克事件。昭和20年8月13日、満洲国の小山克で、武装勢力が列車を襲撃。標的とされた日本の民間人が多数殺害されました。強姦も起きたため、100人以上もの女性が崖から身を投げて自決しています。合掌。
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日本の夏はお盆(盂蘭盆会)に死者を供養する古くからの風習と終戦の日が相まって、世界的にも珍しい独特の雰囲気に包まれます。少しでも御霊の慰めとなるよう、静かに鎮魂の気持ちを送りたいものです。そして御霊が微笑まれるような「安らかな国づくり」を目指さねばと思います。
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戦時中、多くの特攻隊員が、美しくも潔く散ってゆく桜の姿に自身の命を重ね合わせました。そんな方々の存在があって、今年も終戦の日がやってきます。
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潜水服を着て海中から棒機雷で敵船艇の船底を突き上げる人間特攻「伏龍隊」。元隊員の片山惣次郎さんはこう語った。今の人たちには笑われてしまうかもしれませんが、あの潜水服を着て実際に海に潜った人たちは皆『利他行』でやっていたんですよ」。利他行の反対語は自利行。利他行を私は笑わない。
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昭和20年5月18日、第五十三振武隊は鹿児島県の知覧飛行場から特攻作戦に参加するため出撃。沖縄周辺の海上で敵艦船に突入した。写真は出撃20分前の「最後の食事」を写した一枚。母の手料理を思い出しながらの食事だったかもしれない。
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特攻隊である第五十三振武隊の隊員たちが、出撃前に撮った一枚の写真。自分はこんなに笑ったことがあっただろうか。この笑顔の意味をずっと考えています。
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俺が死んだら何人泣くべ 特攻隊員(第23振武隊)前田敬の遺書。享年23。 合掌。
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鹿児島県の知覧飛行場の近くで食堂を営んでいた鳥濱トメさんは、多くの特攻隊員から「お母さん」「おばちゃん」と親しまれた存在だった。隊員の遺族には出撃前の様子を綴った手紙を送り、戦後も御霊の供養を続けた。トメさんは平成4年に89歳で逝去。合掌。
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「子犬を抱いた特攻兵」として有名な荒木幸雄伍長。荒木の属する第72振武隊は自らを「ほがらか隊」と呼んだ。彼らは昭和20年5月27日、鹿児島県の万世飛行場から出撃。荒木の搭乗機は、沖縄本島中部に広がる金武湾の東方において、敵駆逐艦に突入した。享年若く17。合掌。
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「産経新聞」(8月9日付)のコラム「一筆多論」にて、拙著『大東亜戦争の事件簿』(育鵬社)が紹介されました。「葛根廟事件」に関しての引用です。是非ご一読下さい。
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満洲国・興安街の住民達は、ソ連軍の不法侵攻後、退避を開始。しかし、避難中の昭和20年8月14日、ソ連の戦車部隊に包囲され、多くの人々が虐殺された。戦車は遺体も重傷者も踏み付けながら走った。千数百人いた避難民の内、生きて帰国できたのはわずか百余名であった。これが「葛根廟事件」である。
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月刊「文藝春秋」(9月号)に「証言・ソ連を北海道から撃退せり」という記事を寄稿しました。実際に占守島で戦った元兵士の方の貴重な証言を元に、日本が分断国家になることを防いだ「占守島の戦い」の実像について書きました。是非ご一読ください。
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終戦直後、ソ連軍の不法侵攻に対し、占守島で実際に戦われた元少年戦車兵の小田英孝さん(94歳)。「占守島ではよくあれだけ戦ったと思いますよ。あそこで日本軍の強さを知ったから、ソ連はそれ以上、手を出せなくなったわけでしょう。戦った意義はあったと思っています」。
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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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17歳の特攻兵である荒木幸雄伍長は、基地の周囲をチョロチョロと歩き回っていた子犬を可愛がっていた。小さな子犬に彼が付けた名前は「チロ」。荒木伍長は「チロ、大きくなれよ」と声をかけ、自身は特攻作戦を遂行するため出撃した。合掌。
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荒木幸雄伍長(17歳)の属する第72振武隊は、自らを「ほがらか隊」と呼んだ。昭和20年5月27日、「ほがらか隊」は特攻作戦に参加するため、鹿児島県の万世飛行場から出撃。荒木の搭乗機は沖縄本島中部に広がる金武湾の東方において、駆逐艦「ブレイン」に突入した。合掌。
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特攻隊員の宮川三郎は出撃前日、飛び交うホタルを眺めながら食堂の女主人である鳥濱トメに言った。「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。翌日の夜、大きな一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。トメの娘が叫んだ。「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。トメや戦友らは皆でむせび泣いた。
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終戦後、ソ連軍が千島列島の占守島に侵攻を始めた際、「断乎、反撃せよ」と徹底抗戦を命じたのが樋口季一郎陸軍中将。樋口の決断と現地軍の奮戦の結果、日本は「ソ連による北海道分割」の悪夢から免れた。樋口は満洲駐在時に「ユダヤ難民救出劇」を実現した事でも歴史に名を残す。丁寧に語り継ぎたい。
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樋口季一郎中将の功績は、教科書でしっかりと教えるべきものだと思います。樋口中将の生涯については、拙著『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎(文春新書)もご参照いただければ幸いです。amazon.co.jp/dp/4166607588/… @AmazonJPより
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【スクープ】文春オンラインに下記の記事を寄稿。戦後に同志社大学の学長となる星名秦が、終戦直後、ソ連軍の侵攻で混乱する満洲で多くの邦人を救出した秘話について書きました。 「その日、ソ連軍がやってきた」邦人引き揚げを支えたラガーマンとは? #文春オンライン bunshun.jp/articles/-/561…
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特攻隊員たちの遺書。内容はもちろん、その達筆さにも心打たれる。皆、20歳前後の若者たち。合掌。
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大東亜戦争を泥沼化させた最大の要因は、新聞をはじめとする各種メディアだった。そして今回のコロナ禍においても、不正確な情報を垂れ流し、社会不安を煽り、人々の生活を最も傷付けたのは、テレビのワイドショーなどのメディアであった。歴史は繰り返されたのである。
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18歳の遺詠。
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靖国神社を参拝した議員をニュースにするのではなく、参拝しない議員をニュースにすべき。
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知覧の特攻基地近くで食堂を営んでいた鳥濱トメさんは、多くの特攻隊員から「お母さん」「おばちゃん」と親しまれた存在だった。勝又勝雄少尉は「俺の余した30年分の寿命は、おばちゃんにあげるから」と言い残して出撃した。トメさんは戦後、慰霊や鎮魂に努めながら89歳まで生きた。合掌。