早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(古い順)

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「戦争の記憶」と同じく、しっかりと語り継ぐべきは「共産主義の歴史」。私が住んでいたルーマニアはもちろん、他の東欧諸国、ソ連、中国、カンボジア等々、多くの国々において、戦争よりも共産主義によって人々の命が奪われてきた。これは義務教育で丁寧に教えるべき案件。過ちを繰り返さないために。
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「正論」7月号に『語り継ぐべき「満洲大虐殺」』というルポを寄稿。葛根廟事件や数多の婦女暴行事件など、ソ連軍による数々の蛮行について書きました。今まであまり語られてこなかった「真の大虐殺事件」について、多くの方々に知ってほしいと思います。慰霊と鎮魂、そして歴史の教訓を得るために。
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満洲国・興安街の住民はソ連軍の侵攻を受けて退避。だが、避難中の昭和20年8月14日、ソ連の戦車部隊に包囲され、多くの人々が虐殺された。ソ連軍は投降の意志を示した者たちをも一斉に殺戮。千数百名いた避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。これを「葛根廟事件」という。
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終戦直前、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満洲国への侵攻を開始した。当時、150万人以上いた在留邦人は日本に引き揚げることになったが、その途中、ソ連軍兵士や中国人の暴民らから数え切れないほどの殺戮や略奪、強姦などを受けた。「満洲大虐殺」と私は名付けたい。
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特攻隊員となる少年飛行兵の教官役だった藤井一陸軍中尉は「お前たちだけを死なせない。自分も後から必ず行く」が口癖だった。しかし、妻子のある藤井に特攻命令はなかなか出ない。その事実を知った妻・福子は、夫の願いを叶えるために入水自殺。藤井の特攻はこうして叶った。合掌。
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6月6日は特攻隊員・宮川三郎の命日。宮川は出撃前日、ホタルを眺めながら食堂の女主人・鳥濱トメに言った。「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。翌日の夜、一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。トメの娘が叫んだ。「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。トメらは皆でむせび泣いた。
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6月6日付「産経新聞」。「正論」7月号に寄稿した拙稿が紹介されました。感謝申し上げます。
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特攻隊員・渋谷健一には、幼い子供と身重の妻がいた。彼は遺書にこう書き記した。「父恋しと思わば空を視よ。大空に浮ぶ白雲に乗りて父は常に微笑みて迎う」。昭和20年6月11日、渋谷は特攻死。奇しくも同日、妻・光は男児を出産。周囲の者たちは「生まれ変わり」と驚嘆して号泣した。合掌。
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女の子たちが「天童って餃子が名物なのかなあ」と話しているのが聞こえてきたけど、違うよ。
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本日は沖縄戦の犠牲者を追悼する「慰霊の日」。沖縄戦では激しい戦闘の結果、約20万人もの人々が亡くなったと言われています。そんな戦闘から77年。鎮魂と哀悼。そして平和への思いを静かに噛み締める日としたい。
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アメリカ第16代大統領であるエイブラハム・リンカーンの言葉。 「投票(ballot)は弾丸(bullet)よりも強し」 皆で投票に行こう。
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樋口季一郎中将の功績を伝えるニュースが、NHK北海道で放送されました。関心を持つ方が増えて嬉しく思います。 旧ソビエト軍の千島列島侵攻時 防衛指揮した司令官の孫が講演|NHK 北海道のニュース www3.nhk.or.jp/sapporo-news/2…
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戦前の早大ラグビー部で監督を務めた大西栄造は陸軍に応召。戦友にこう語った。「俺の死体が不明の時はラグビー靴を履いた死体を探してくれ」。大西の派兵先はフィリピン。昭和20年7月7日、大西はラグビーシューズを履き、更には早大のジャージを腰に巻いて敵戦車に爆雷もろとも突撃して散った。合掌。
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7月11日から海上自衛隊の護衛艦「きりさめ」が、パラオのマラカル湾に錨泊しています。13日には「きりさめ」の乗員がコロール市内の旧海軍墓地を訪れ、戦没者の慰霊碑に献花を行いました。パラオ戦では、日本側に1万人以上もの犠牲者が出ました。島には今も約2200柱ものご遺骨が眠っています。合掌。
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昭和19年9月15日、米軍はパラオ・ペリリュー島への上陸戦を開始。中川州男大佐率いる守備隊は、米軍の進撃を止めるため決死の反攻。74日間に及ぶ激戦の末、日本側に1万人以上の犠牲者が出た。但し日本側が疎開指示を徹底したため、島民への被害の拡大は免れた。島には今も2200柱以上のご遺骨が眠る。
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今夏は下記2冊を刊行。戦争を改めて考える一助になれば幸いです。 『戦時下のノーサイド 大学ラグビー部員たちの生と死』(さくら舎)amazon.co.jp/dp/4865813497/… @AmazonJPより 『祖父が見た日中戦争 東大卒の文学青年は兵士になった』(扶桑社)amazon.co.jp/dp/4594091105/… @AmazonJPより
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2020年10月14日に亡くなられたクニオ・ナカムラ元パラオ大統領。2015年に私がパラオを訪れた際、快く取材に応じてくれました。「戦前も戦後も、日本はパラオに本当に良くしてくれた。日本とパラオは友人であり兄弟です」と笑顔で語ってくれたのが印象に残っています。
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パラオ・ペリリュー戦の帰還兵である永井敬司さんはこう語ってくれた。「日本を守るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を守るため。私たちは太平洋の防波堤となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」。永井さんは2019年11月4日に御逝去。合掌。
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先の大戦に関する取材でお世話になった多くの方々が、ここ数年で亡くなられた。皆さん「平和の大切さ」を語ってくれたが、同時に「戦後の歴史教育の偏り」を嘆く声も多かった。ある方は「亡くなった戦友達に申し訳ない」と号泣された。史実に沿った奥行きのある歴史観を丁寧に育む世の中にしたい。
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台湾南部の農業の発展のため、烏山頭ダムを建設した八田與一。台湾では「最も尊敬すべき日本人」とも称され、その功績は教科書にも記載されている。そんな八田も1942年、乗っていた客船が米軍の攻撃に遭い死亡。敗戦後、八田の妻はかつて夫がつくったダムに身を投げて後を追った。合掌。
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昭和19年8月22日、沖縄から本土に向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されました。犠牲者数は子供を中心に1500人近くにも及びます。沈没現場の海は荒れており、子供達の泣き叫ぶ声は少しずつ消えていったと伝わります。何年経っても鎮魂の思いを寄せたいものです。合掌。
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終戦直前の昭和20年7月、沖縄の石垣島から台湾に疎開する島民を乗せた2隻の小型船が、米軍機の攻撃を受けて遭難。漂流者たちは尖閣列島の魚釣島に上陸しましたが、その後、餓死者も出る惨劇となりました。犠牲者のご遺骨は、未だ島内に残されています。一刻も早く遺骨収集を行い、慰霊祭をすべきです。
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フィリピンで「カミカゼ・ミュージアム」を運営していたダニエル・ディソンさん(故人)。幼少時、多くの日本兵と親しくなり、餅や芋をもらったという。「ヤマカワという名の中尉が私のことを『自分の小さな弟によく似ている』と言って可愛がってくれました。よく手を繋いで一緒に散歩したんですよ」
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最初の神風特別攻撃隊「敷島隊」は、フィリピンのマバラカット飛行場で編成された。現在、同地はフィリピンの人々の手によって維持されている。「どうして日本の政治家は、命を賭けて祖国を守った人々の慰霊に来ないのですか?」
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昭和12年7月29日、北平の東方に位置する通州という町で、冀東保安隊と呼ばれる中国人部隊らが日本人居留民への襲撃を開始。「通州事件」の勃発である。暴徒らは女性(妊婦を含む)や子供、老人まで無差別に虐殺した。結局、通州に約300人いた日本人の内、実に200人以上が犠牲になったとされる。合掌。